歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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曹操の兵戸制と屯田制=魏晋から南北朝前半までに渡り運用された制度

曹操の行なった政策の一つとして兵戸制というのがある。これは永代の兵役義務を特定の戸、つまり一族に課するものである。軍事行動の安定行動を狙った曹操の革新的な政策である。 これは曹操の行なった政策として非常に有名な屯田制よりも重要である。 ●「ヒ…

長江は文化圏を分ける。黄河は幽州を分離=石勒312年江南撤退、襄国本拠設置から辿る=

●長江は文化圏を分ける。 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その1 王浚への対抗 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その2 石勒の強みを最も活かせる土地 石勒の邁進にストップをかけた長江。 これは曹操も同じであった。 長江は移動の弊害という天嶮の意味だけ…

石勒の転機は312年に寿春手前で足止めを食い、建業に攻め込めなかったことである。

石勒の経歴を端的に記す。 中原から長江北岸までを散々荒らし回ったが、 華北に帰り、拠点を設け、覇道の道へと進む。 その結果、華北東半分の覇者となり、劉曜との洛陽最終決戦に望み、勝利。 晴れて皇帝となり、中原の覇者となる。 こうした輝かしい異民族…

都市に関心がない異民族=石勒は江南で敗れて襄国に帰るまで都市を占領統治しない。

石勒をはじめ、異民族というのは都市を統治しない。 都市の活用の仕方がわからないのである。 ●ただ、中華内地を荒らすだけの石勒 ●北方異民族にとって都市自体に価値はなかった。 だから、とにかく略奪するのみ。 おかげで石勒は三度も鄴を陥落させることに…

西晋を滅ぼした石勒、曹操との類似性。

◾️石勒の遺言と曹操の遺言の比較◾️ ●石勒という奴隷出身者と、曹操という宦官の「孫」、究極の成り上がり。 ●中原の確保。事実上の天下取り。 ●中華統一王朝後漢と西晋を事実上の滅亡に追い込む、曹操と石勒。 ●「鄴」を本拠に置く、軍事重視の姿勢。 ●胡漢…

匈奴の冒頓単于に始まる「人さらい」=異民族が「漢人」を欲しがる理由=

西晋末期から五胡十六国時代にかけて、異民族にとって、 人間は家畜や穀物とほぼ同列の資源、物資として扱われていることを歴史上から私は説明している。 異民族が漢文明に染まりながらも、異民族の風習が中国を席巻するのが、この時代である。 石勒はとにか…

石勒というカタストロフィ〜本来石勒は英雄だった〜

石勒とは何者か。 歴史に埋もれた英雄である。 ●石勒の実績は四つの史上初と、中華統一王朝を滅ぼすという歴史的快挙 ●中華史上の快挙である石勒が異民族である悲劇 この人物は、中華史上、最大の成り上がりを成し遂げた人物である。歴史の流れから考えると…

なぜ織田信長は面白いか。

それは事実だからだ。 太田牛一が守った事実だからだ。 本当の事実というのは週刊誌のゴシップに近い部分も含めて人間臭く本当に面白いものだ。 太田牛一は、豊臣家から信長公記を隠して、著述、著書を隠した。 それは、時の権力者にとって、好ましい内容で…

八王の乱の対立構図、賈后対皇太子は五胡十六国時代の終焉まで続く。

匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。 司馬越はこれらに対抗する。 この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。 それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。 ●賈后派と司馬穎派: ●北魏の華北統一は新しい時代の到来を…

劉淵の父劉宣が胡漢融合モデルの創始者

劉淵は匈奴漢の事実上の立役者と言われる。これは広く認められるところだが、実態は誤りだ。大事なのは、劉宣である。 ●劉宣、この胡漢融合の歴史上、最重要人物劉宣 ●劉宣の死後、匈奴漢は攻撃的になる。 ●匈奴漢に匈奴らしさが出てきたのは308年以降 ●308…

晋書の意図が劉淵の歴史的事実を「伝説」にすり替えられた。

劉淵と白登山との関係は、晋書の意義を考えると見えて来る。 時代が変わると白登山の意義が変わるのである。 前200年白登山の戦いは、4世紀の劉淵にも、 7世紀の唐太宗にも影響を与える。 900年以上に渡って影響力を持ちつづける事績である。 ●晋書の完成を…

劉淵 漢として自立した真実の理由=劉淵は西晋のエージェントである=

●王に留まる意味:称号と劉淵の人物像から探る。 ●何故漢と名乗ったか。 ●なぜ劉淵が漢を選んだ理由が、白登山の戦いに由来するようになったのか。 304年の10月に劉淵は漢を名乗り自立したことになっている。304年の段階で、劉淵が漢と名乗った理由について…

劉淵 領土拡大の経緯 307年までは反司馬越 308年から反西晋活動が始まる。

●八王の乱から司馬越死去までの流れ: ●304年8月に劉淵が司馬穎軍から離脱した後の動き: ●劉淵の軍事行動 307年までは西晋の枠組みの中で反司馬越 ●劉淵は司馬越が西晋の完全掌握した後に西晋から離反する。 劉淵の漢王としての活動と、漢皇帝としての活動…

匈奴単于は中華皇帝の「必需品」~皇帝としての正統性の象徴~

●きっかけは、前200年白登山の戦い ●前漢武帝、中華の雪辱を晴らして、秦の始皇帝とイコールになる。 匈奴の単于を傘下に置くこと、それは中華皇帝にとって、最大の正統性の証であった。 ●きっかけは、前200年白登山の戦い 現在の大同(当時は雁門郡平城。代…

晋書の役割=劉淵が皇帝を名乗った経緯から探る=

●晋書成立の背景 ●晋書の役割 ●唐が受け継いだ北朝の発端 ●劉淵が漢皇帝と同格でかつ漢皇帝を継承するとした時期 現代中国は政治的な国とよく言われる。 それは中国史において、政治的な対処が明確にしているからではないかと 私は考える。 王朝が全く変わる…