歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

②何故斉の桓公は重耳を受け入れたか。

①斉の桓公は重耳の亡命を喜ぶ。 ②斉の桓公は晋に介入しない。 ③姫姓の国は重耳を嫌がる。 ④晋に関心のない桓公が重耳亡命を喜び、姫姓の国が重耳を嫌う、その結論 何故斉の桓公は重耳を受け入れたか、に関して、 3つの視点から考えていきたい。 ①斉の桓公は…

①何故斉の桓公は重耳を受け入れたか。=問題提起=

何故斉の桓公は重耳を受け入れたか。 後に春秋五覇の一人となる、晋の文公、重耳。彼は公になる前は流浪の公子であった。 ●斉の桓公は本来の晋の後継者争いを差配する立場である。 ●重耳を冷遇するのは全て姫姓の国である。 ●異姓の国 衛で冷たくあしらわれ…

劉淵・石勒 事績が分かりにくい理由

劉淵、石勒に関する書物というのは非常に少ない。 特に石勒は少ない。中華史を大きく変えた人物なのに、注目されないのはなぜか。 ●魏晋南北朝時代は中華圏と異民族圏の壮大な戦いの時代 ●中華と匈奴の合いの子、劉淵の誕生: ●劉淵の志を継ぐ石勒、胡漢融合…

みんなの歴史の「偏見」が集まれば真実に限りなく近づく

円は線の集合体と見ることもできる。 一本一本線が集まっている。 ミクロンの世界では線の集合体だが、肉眼で見たら円にしか見えない。 ●どうしてもフィクション性があるのが歴史 ●歴史学者すら真実にはたどり着かない。 それが限りなく真円に近づいていく。…

攻城戦 夜討ちや夜の銅鑼、鬨の声の効果。

攻城戦について、 よく語られる情景の一つとして、 守兵を眠らせないというのがある。 ●夜に攻めかけることの意味 夜討ちを繰り返したり、 銅鑼や罵声、鬨の声で 守兵が眠れず、士気が低下した、 それで隙ができて、 謀略が成功し、落城した、という話だ。 …

東晋の歴史概観=五つの勢力が相争う内乱の歴史

東晋の歴史は内乱の歴史である。 下記五つの勢力が相争う。 皇帝宗族外戚(北)北来貴族(北)北府軍(北)江南土着勢力(南)西府軍(南) ※()内は由来。北は華北から逃げて来た勢力の集まり。 南は土着勢力。 ●318年東晋成立 五陣営の権力争い ●西府軍総…

石勒、312年葛陂の悟り=これこそが劉聡、劉曜と袂を分つきっかけである=

石勒が異民族から英雄に進化したのは、葛陂の戦いである。 許昌南西方面の豫州汝陰郡葛陂において、寿春を目の前にして立ち往生したときである。 石勒は司馬睿軍が駐屯する寿春を前に立ち往生。 引用:中国歴史地図集 ●石勒、葛陂にて悟る。 葛陂にたどり着…

歴史とは「私はこう思う」で良い。

歴史はその現場を実際に見てきた人しか、 真実を知り得ない。 書物で読んだとしても、 その事実は書いた著者の見たい歴史像に左右されている。 我々が知り得る歴史は全て、誰かの目を通して認識した歴史になっている。 ある事象を史記で読んで理解したとする…

関羽の実態は、義兄劉備を政治的に追い込んだ張本人

関羽については、いつかしっかりと事跡を辿りたいが、長編になるので、ここでは結論から言いたい。 ●関羽の襄陽攻撃は独断 ●関羽は事実上の劉備から独立していた。 ●劉備の政治生命にとって致命的な荊州失陥 ●荊州失陥のスケープゴートになった劉封と孟達 関…

虚構の「関羽」の国家利用=明のプロパガンダ三国志演義=

実態に迫ることで、なぜ関羽が国家利用されたのかを記述したい。 ●関羽 国家と民の心を掴むその理由 ●虚構の関羽 ●実態の関羽 四点から考察 ①桃園の誓い ②義兄弟、そのアンダーグラウンドな世界 ③尊皇の概念で民衆が動く時代ではない。 ④荊州失陥、悲劇では…

石勒はソグド人か②=石勒は安禄山と同じソグド人、祖先は大月氏=

石勒の先進性は、その出自に由来する。 異民族どころではない、歴史の孤児石勒。 その由来を辿る。

石勒はソグド人か①=「石勒」という名前はトルコの当て字=

石勒の出自に関して記述をしたい。 ●石勒の出身民族、羯とは。 ●なぜ石勒は「石勒」という名前になったのか。 ●なぜ、わかりきった名前にしたのか。「石勒」≠匈奴。 石勒は、羌渠部から派生した羯族の一人と言われている。 これはあてにならないと私は考えて…

東晋丞相王導の献言で司馬睿が南遷したという「嘘」=彼は保身に走る単なる政治家である。=

王導の献言で司馬睿が南遷したというのは嘘だ。 ●王導の虚実 ●司馬睿南遷は司馬越の指示 ●司馬越直属の参軍王導は監軍として司馬睿南遷に同行。 参軍とは: 監軍とは: ●王導の自己保身 ●●●●●司馬越の監軍 王導●●● www.rekishinoshinzui.com ●王導の虚実 後…

差別された側が、差別した側を打倒していくのが中華の歴史である。=漢、唐、元が概念を変える=

漢人の異民族に対する差別は、近代の白人の、有色人種に対する考えと同じである。 中華の歴史の中で、差別する差別される側というのは、固定していない。 600年から800年のタームで、変化していく。 差別された側が、差別した側を打倒していくのが中華の歴史…

曹操が始めた兵戸制 魏晋南北朝時代にかけての変遷と比較について

●曹操の兵戸制から見える一民衆の悲哀 ●三国時代の呉と蜀漢における兵役とは ●実は平和主義の中華王朝、兵戸制を嫌う。 ●兵戸(鎮)出身の高歓、宇文泰の反乱が北魏を滅ぼす。 ●宇文泰の府兵制。有力豪族に軍隊を組織させ、制度化する。 ●曹操の兵戸制から見…

曹操の兵戸制と屯田制=魏晋から南北朝前半までに渡り運用された制度

曹操の行なった政策の一つとして兵戸制というのがある。これは永代の兵役義務を特定の戸、つまり一族に課するものである。軍事行動の安定行動を狙った曹操の革新的な政策である。 これは曹操の行なった政策として非常に有名な屯田制よりも重要である。 ●「ヒ…

長江は文化圏を分ける。黄河は幽州を分離=石勒312年江南撤退、襄国本拠設置から辿る=

●長江は文化圏を分ける。 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その1 王浚への対抗 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その2 石勒の強みを最も活かせる土地 石勒の邁進にストップをかけた長江。 これは曹操も同じであった。 長江は移動の弊害という天嶮の意味だけ…

石勒の転機は312年に寿春手前で足止めを食い、建業に攻め込めなかったことである。

石勒の経歴を端的に記す。 中原から長江北岸までを散々荒らし回ったが、 華北に帰り、拠点を設け、覇道の道へと進む。 その結果、華北東半分の覇者となり、劉曜との洛陽最終決戦に望み、勝利。 晴れて皇帝となり、中原の覇者となる。 こうした輝かしい異民族…

都市に関心がない異民族=石勒は江南で敗れて襄国に帰るまで都市を占領統治しない。

石勒をはじめ、異民族というのは都市を統治しない。 都市の活用の仕方がわからないのである。 ●ただ、中華内地を荒らすだけの石勒 ●北方異民族にとって都市自体に価値はなかった。 だから、とにかく略奪するのみ。 おかげで石勒は三度も鄴を陥落させることに…

西晋を滅ぼした石勒、曹操との類似性。

◾️石勒の遺言と曹操の遺言の比較◾️ ●石勒という奴隷出身者と、曹操という宦官の「孫」、究極の成り上がり。 ●中原の確保。事実上の天下取り。 ●中華統一王朝後漢と西晋を事実上の滅亡に追い込む、曹操と石勒。 ●「鄴」を本拠に置く、軍事重視の姿勢。 ●胡漢…

匈奴の冒頓単于に始まる「人さらい」=異民族が「漢人」を欲しがる理由=

西晋末期から五胡十六国時代にかけて、異民族にとって、 人間は家畜や穀物とほぼ同列の資源、物資として扱われていることを歴史上から私は説明している。 異民族が漢文明に染まりながらも、異民族の風習が中国を席巻するのが、この時代である。 石勒はとにか…

石勒というカタストロフィ〜本来石勒は英雄だった〜

石勒とは何者か。 歴史に埋もれた英雄である。 ●石勒の実績は四つの史上初と、中華統一王朝を滅ぼすという歴史的快挙 ●中華史上の快挙である石勒が異民族である悲劇 この人物は、中華史上、最大の成り上がりを成し遂げた人物である。歴史の流れから考えると…

なぜ織田信長は面白いか。

それは事実だからだ。 太田牛一が守った事実だからだ。 本当の事実というのは週刊誌のゴシップに近い部分も含めて人間臭く本当に面白いものだ。 太田牛一は、豊臣家から信長公記を隠して、著述、著書を隠した。 それは、時の権力者にとって、好ましい内容で…

八王の乱の対立構図、賈后対皇太子は五胡十六国時代の終焉まで続く。

匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。 司馬越はこれらに対抗する。 この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。 それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。 ●賈后派と司馬穎派: ●北魏の華北統一は新しい時代の到来を…

劉淵の父劉宣が胡漢融合モデルの創始者

劉淵は匈奴漢の事実上の立役者と言われる。これは広く認められるところだが、実態は誤りだ。大事なのは、劉宣である。 ●劉宣、この胡漢融合の歴史上、最重要人物劉宣 ●劉宣の死後、匈奴漢は攻撃的になる。 ●匈奴漢に匈奴らしさが出てきたのは308年以降 ●308…

晋書の意図が劉淵の歴史的事実を「伝説」にすり替えられた。

劉淵と白登山との関係は、晋書の意義を考えると見えて来る。 時代が変わると白登山の意義が変わるのである。 ●晋書の完成を、唐太宗が自身の晩年に急がせた理由: ●唐太宗を初めとした異民族が侵略者ではない理由を作りたい。 晋書は648年の唐の太宗の命によ…

劉淵 漢として自立した真実の理由=劉淵は西晋のエージェントである=

●王に留まる意味:称号と劉淵の人物像から探る。 ●何故漢と名乗ったか。 ●なぜ劉淵が漢を選んだ理由が、白登山の戦いに由来するようになったのか。 304年の10月に劉淵は漢を名乗り自立したことになっている。304年の段階で、劉淵が漢と名乗った理由について…

劉淵 領土拡大の経緯 307年までは反司馬越 308年から反西晋活動が始まる。

●八王の乱から司馬越死去までの流れ: ●304年8月に劉淵が司馬穎軍から離脱した後の動き: ●劉淵の軍事行動 307年までは西晋の枠組みの中で反司馬越 ●劉淵は司馬越が西晋の完全掌握した後に西晋から離反する。 劉淵の漢王としての活動と、漢皇帝としての活動…

匈奴単于は中華皇帝の「必需品」~皇帝としての正統性の象徴~

●きっかけは、前200年白登山の戦い ●前漢武帝、中華の雪辱を晴らして、秦の始皇帝とイコールになる。 匈奴の単于を傘下に置くこと、それは中華皇帝にとって、最大の正統性の証であった。 ●きっかけは、前200年白登山の戦い 現在の大同(当時は雁門郡平城。代…

晋書の役割=劉淵が皇帝を名乗った経緯から探る=

●晋書成立の背景 ●晋書の役割 ●唐が受け継いだ北朝の発端 ●劉淵が漢皇帝と同格でかつ漢皇帝を継承するとした時期 現代中国は政治的な国とよく言われる。 それは中国史において、政治的な対処が明確にしているからではないかと 私は考える。 王朝が全く変わる…

春秋晋国の正卿一覧

中軍の将一覧 晋の正卿一覧。その数は十五人。 春秋時代の晋国独自の制度、正卿制度について述べたい。 晋国中興の祖とも言える、春秋五覇の一人晋文公の即位の経緯から、 晋は君主の力が著しく弱く、各諸侯の力が非常に強かった。 事実上の寡頭制とも言える…

劉淵の独立は二回=王であること、皇帝であることは意味が異なる=

劉淵の独立は二度。その意味の違い。 劉淵、自立の経緯 304年の劉淵独立が漢王にとどまる、その意味 劉淵、二度目の独立。308年10月皇帝になる。 このタイミングでなぜ劉淵は皇帝となったか。 劉淵の独立は二度。その意味の違い。 劉淵の自立は、二回ある。 …

劉淵の歴史認識=匈奴漢が祀る三祖五宗とは=

三祖五宗 太祖とは、世祖とは、烈祖とは 劉淵は高祖光文帝。この意味。 劉淵の打ち立てた王朝、匈奴漢の宗廟で祀る皇帝は下記である。 三祖五宗 祀る皇帝は下記である。三祖五宗という。 【三祖】太祖高皇帝劉邦世祖光武帝劉秀烈祖昭烈帝劉備【五宗】太宗文…

劉淵自立の背景=劉淵の天命論=それに対する司馬越の当て付けが劉琨

●天から選ばれた子という天子伝説に則って、劉淵は自立した。 ●祀る皇帝は下記の三祖五宗 劉淵の自立理由は二点だ。 ①匈奴本国の掌握の為である。 ②匈奴の不満を抑える為である。 ●とはいえ304年に自立した劉淵は3年大して動かない。 ●匈奴だけではなく、こ…

匈奴の単于に劉氏を認めたのは誰か?=⑤劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

劉氏を名乗る、これはそう簡単にできることではない。 何故なら、劉氏のみ皇帝になれるという考えが蜀漢が滅びるまであったからだ。 下記二つの記事を参照していただきたい。 ●劉の姓は誰がくれたのか。 ●曹魏が劉氏を与えたのか。 ●西晋司馬氏が劉氏を与え…

劉淵の父とされる「劉豹」、その正体=④劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

●用済みになった呼廚泉 ●劉豹は羌渠の「兄弟」、これが正解である。 ●用済みになった呼廚泉 さて劉豹は於夫羅の子ではない。 なぜ劉豹は於夫羅の子にされたのか。 それは、於夫羅が単于として中華内地に留め置かれ、 漢に屈服した人物だからだ。 195年に早死…

匈奴の単于が、漢人名の劉氏を名乗ること、その奇怪さ。 =③劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

●そもそも劉氏と誰が初めに名乗ったのか。 ●劉豹は於夫羅の子ではない。 匈奴の単于が、漢人名の劉氏を名乗ること、その奇怪さ。 これに注目する。 ●そもそも劉氏と誰が初めに名乗ったのか。 劉淵以降の系譜はみな劉氏だが、 その前の世代だと、劉氏を名乗っ…

劉豹Aと劉豹Bの存在=②劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=

●劉豹の事績 ●何故劉豹は二人いて、劉淵は劉豹の子であったのか。 ●劉豹Bが抹消されたのは何故か。 劉豹と劉宣両名の系図を疑ってかかる。 まずは劉豹から。 ●劉豹の事績 劉豹の話に戻るが、 事績は前半と後半の二つに分かれる。 前半部分は後漢末期の話であ…

①劉淵は劉豹の子ではない。では誰の子か。=劉豹は於夫羅の子ではなく、劉宣は羌渠の子ではない。=

劉淵は劉豹の子ではない。 また匈奴本国で、左賢王として匈奴独立を推進した 大叔父劉宣は、於夫羅・呼廚泉の兄弟でもない。これは前項までの「劉淵出自の謎」で説明してきた。 ・まず劉淵は劉豹の子ではない。 ・劉宣は於夫羅・呼廚泉の兄弟ではない。すな…

劉淵独立の真実②=劉淵の司馬穎軍からの離脱エピソードの嘘

++劉淵に匈奴独立の動機がない++ ++後漢末期の匈奴単于羌渠と同様に殺されかねない状況の劉淵++ 劉淵は親西晋、羌渠と同じ、親中華 ++やむなく自立する劉淵、促したのは左賢王劉宣の現実的な判断++ ++劉淵に匈奴独立の動機がない++ 劉淵のこ…

劉淵独立の真実①=親西晋の劉淵は自分から率先して漢として独立したのではない。

251年生まれの劉淵は、304年、すなわち劉淵53歳の時に、ずっと中華の中心中原にいたのを、鄙びた田舎の離石に移動して自立する。最晩年のこの大きな変動は個人の人生として幸せだろうか。そこまでして、部族を引き連れなければいけないものなのか。 ++劉宣…

⑤劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~劉淵の本当の父~

●劉淵の本当の父 ●曹操が作った単于=人質、左賢王=エージェントモデルからの発展「単于自身が漢化する」 ●匈奴漢が中華風王朝であるのは劉淵存命まで。 これまで、曹魏、西晋の匈奴政策、 それに紐づく匈奴単于家の不透明な経歴、年齢について述べてきた。…

④劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~ 匈奴の単于が劉氏となるその覚悟はどこから来るのか ~

●劉豹にある謎。何故劉氏なのか。何故死没年が279年なのか。 ●劉氏庇護と匈奴単于家系譜の改竄 ●西晋にとって劉淵の存在意義 ●劉豹にある謎。何故劉氏なのか。何故死没年が279年なのか。 劉宣もそうだが、 私は匈奴という民族意識があるのであれば、 匈奴か…

③匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~於夫羅の弟、息子は疑惑ばかり~

年齢詐称は決して現代だけのものではない。 歴史上にもおかしな年齢というのは存在する。そこからわかる歴史の実態というのもある。今回は匈奴単于の秘密を年齢から暴く。

②匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~曹操が始めた匈奴単于人質策。左賢王は曹操の代理人~

「劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎①」において、 劉淵の父劉豹と祖父於夫羅の親子関係に大きな疑惑があることを説明した。 ●於夫羅と呼廚泉の立場 ●曹操の匈奴統治政策。馬は覇業のキーファクター ここでは、まず劉豹の先々代の「単于」で「父」とされる…

①匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~劉淵の父と祖父の関係に疑惑がある~

劉淵の父は 本当に単于の家系なのか。 ●劉豹はどういった経緯で単于直系となったのか。 ●劉豹が単于に連なるには、父との年齢差が非常に問題 劉淵の父、劉豹という人物にフォーカスして考えたい。 劉淵の父劉豹は、匈奴単于の系譜から判断すると、 甥の匈奴…

後の東晋元帝司馬睿よりも本来は皇位に近い存在、司馬保

●司馬保は、司馬越家の生き残り ●司馬保と司馬睿、対立。司馬睿の勝利 ●司馬保は、司馬越家の生き残り 司馬保は司馬越の四弟司馬模の子である。司馬馗家の一人であり、西晋最高権力者司馬越の血族である。司馬越は兄弟を大切にしたので、甥も同様だったであ…

司馬睿は司馬越の副将格 瑯琊王氏の王導は司馬越の目付〜西晋東晋過渡期の311年ー318年〜

●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 ●司馬越の後背地下邳を預かる司馬睿 ●司馬越の意向により建業の確保という使命を帯びる司馬睿 ――――――――――――――― ●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 司馬睿は、愍帝が匈奴漢に降伏して捕虜となった翌317年晋王となっている。…

317年12月から318年3月まで中華皇帝というこの世の持ち主が存在しない大変な異常事態が起きる。

この世の持ち主が存在しない異常事態: 飼い犬に手を咬まれた中華皇帝: 西晋東晋過渡期の311年ー318年、下記の重要事件が起きる。 ・司馬越病死⇒軍勢滅亡311年4月 ・懐帝 逮捕(洛陽陥落)311年6月 ・懐帝 処刑313年1月 ・愍帝 逮捕(愍帝、降伏)316年11月…

三つ巴の中華覇権争奪戦が311年6月から始まる。~永嘉の乱以後~

311年6月に西晋皇帝懐帝が、匈奴漢に捕らわれてから、 中華覇権争奪戦が始まる。 330年9月に石勒が皇帝となり、華北の覇者としての地位を確立するまで続く。 約20年の争乱である。 ①匈奴漢皇帝 劉聡=匈奴優先= ②石勒=異民族・漢人対等融合= ③西晋残党=…