歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

2017-04-03から1日間の記事一覧

263年魏の蜀漢討伐 第七段階 〜漢皇帝、鄧艾に降伏〜

姜維は巴西郡閬中から、 広漢郡郪へ移動。 鍾会は涪城まで進軍。 胡烈とともに、姜維を包囲しようと軍を展開。 鄧艾は雒城に至る。成都を窺う。 蜀漢軍の主力は、剣閣および姜維とともにあった。 徹底抗戦や南方への撤退の声もあるなか、 漢皇帝は、譙周の提…

263年魏の蜀漢討伐 第六段階 〜諸葛瞻敗死〜

鄧艾は、綿竹の諸葛瞻(しょかつせん)を撃破。諸葛瞻敗死。 姜維は、諸葛瞻敗死を知り、鉄壁の剣閣を捨て、巴西へ移動。 涪城は鄧艾が制圧してしまっていて通れない。 迂回して、 成都へ向かおうとする。

263年魏の蜀漢討伐 第五段階 〜鄧艾、姜維の裏を突く〜

鄧艾、江油を突破、蜀へ侵入する。 涪城にいた、衛将軍・平尚書事の諸葛瞻は、綿竹に撤退。 涪城は今の綿陽市である。 蜀エリアである。 蒋琬が病に伏して漢中から撤退したのがこの涪城である。 南東の巴西に行くにも便利な場所で、 交通の要地である。また…

263年魏の蜀漢討伐 第四段階〜白水にいた諸葛緒を鍾会は更迭。軍勢を奪う。総勢13万人の鍾会・胡烈軍は、姜維の籠る剣閣に迫る〜

鍾会・胡烈の軍勢13万人は剣閣の守りの前に 足止めを喰う。 先方が剣閣に到着しても、最後尾はまだ白水にいるほど、 大軍の進軍も滞っていた。 それを知った、3万の鄧艾軍は、 陰平から江油へ向けて、間道を進み、途中道なき道を進みながら進軍する。 鄧艾は…

263年魏の蜀漢討伐 第三段階 〜姜維、諸葛緒を撒くも、既に関城は鍾会・胡烈に落とされ、剣閣に入る〜

姜維は白水に入った。 白水から東北に向かえば、 関城を経て、陽平関(陽安関)に至る。漢中に入れる。 しかし、この時点で既に関城は魏軍に手に陥ちていた。 城将のひとり蒋舒(しょうじょ)が人事の恨みで、 魏に寝返ったためだ。 魏としては、蜀から漢中…

263年魏の蜀漢討伐 第二段階〜鍾会漢中制圧後〜

姜維は沓中から陰平に撤退する。 鍾会の漢中攻撃をはじめ、 早々にこの状況を把握。 鄧艾軍にこだわらず撤退を急ぐ。 漢中を取られたら元も子もないないからだ。 沓中は、岷山山脈の中にある。 岷山の北側、迭山の南側の 白龍江沿いにある。 岷山山脈は、九…

263年魏の蜀漢討伐 第一段階

沓中への駐屯を確認した魏は、 蜀漢討伐を計画、実行に移す。 鍾会が長安に到着したのは、263年の9月のことである。 鄧艾は、都督隴右諸軍事なので、現地駐在、 諸葛緒は、雍州刺史なので、諸葛緒も現地駐在である。 鄧艾すら反対したこの蜀漢討伐。 賛成者…

細川忠興はキリシタンである。

黒田如水、長政は間違いなくキリシタン、 細川忠興もキリシタンである。 しかし、関ヶ原の戦いで、ガラシャを忠興が見切ったことで 両家は仲が悪くなった。 石田三成を襲った七将は、キリシタンがかかわっている可能性が高い。 豊臣政権は、キリシタンを禁止…