歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

三国時代

関羽の実態は、義兄劉備を政治的に追い込んだ張本人

関羽については、いつかしっかりと事跡を辿りたいが、長編になるので、ここでは結論から言いたい。 ●関羽の襄陽攻撃は独断 ●関羽は事実上の劉備から独立していた。 ●劉備の政治生命にとって致命的な荊州失陥 ●荊州失陥のスケープゴートになった劉封と孟達 関…

虚構の「関羽」の国家利用=明のプロパガンダ三国志演義=

実態に迫ることで、なぜ関羽が国家利用されたのかを記述したい。 ●関羽 国家と民の心を掴むその理由 ●虚構の関羽 ●実態の関羽 四点から考察 ①桃園の誓い ②義兄弟、そのアンダーグラウンドな世界 ③尊皇の概念で民衆が動く時代ではない。 ④荊州失陥、悲劇では…

曹操が始めた兵戸制 魏晋南北朝時代にかけての変遷と比較について

●曹操の兵戸制から見える一民衆の悲哀 ●三国時代の呉と蜀漢における兵役とは ●実は平和主義の中華王朝、兵戸制を嫌う。 ●兵戸(鎮)出身の高歓、宇文泰の反乱が北魏を滅ぼす。 ●宇文泰の府兵制。有力豪族に軍隊を組織させ、制度化する。 ●曹操の兵戸制から見…

曹操の兵戸制と屯田制=魏晋から南北朝前半までに渡り運用された制度

曹操の行なった政策の一つとして兵戸制というのがある。これは永代の兵役義務を特定の戸、つまり一族に課するものである。軍事行動の安定行動を狙った曹操の革新的な政策である。 これは曹操の行なった政策として非常に有名な屯田制よりも重要である。 ●「ヒ…

洛陽よりも鄴 曹操に始まる中原の覇者の都・鄴~鄴の歴史⑦

●曹操の本拠は鄴 ●鄴に本拠を置いたのは袁紹が先 ●鍾繇が曹操にとって極めて重要な人物であるその理由 ●洛陽が本拠ではダメなのか。 ●本来は鄴を中心に馬と中原を押さえれば中華統一だった。 曹操が鄴に本拠を置いたことは 案外と認識されない。 ゲームの影…

三国時代に九錫に関連して禅譲まで至らなかったケースが散見される。

禅譲までの至らなかったケースが下記4ケースある。 ●諸葛亮: 諸葛亮は非公式に李厳から九錫を受けるようにと勧められている。 229年のようで、第三次北伐で武都・陰平を制圧したタイミングのようだ。 同年孫権が皇帝を称したので、それを受けてなのではな…

司馬昭、逡巡の晩年10年。輿論に惑う。

司馬昭、逡巡の10年。輿論に惑う。 人が好く、万人は使えやすいが、司馬昭本人は心労が絶えない、10年だった。~司馬師死去からの10年間、司馬昭の軌跡を辿る~ 255年正月の次の閏月司馬師死去。司馬昭が後を継ぐ。 ⇒突然の辞退。司馬昭の息子司馬攸が司馬…

安堵した司馬昭、亡国の天子劉禅を洛陽に迎え、晋王に就く。

司馬昭の蜀漢討伐から、晋王就任、そして長子司馬炎の禅譲までを、時系列で見る。263年9月に長安を発した鍾会の軍勢は、 翌10月に早々に漢中エリアを掌握する。 それを受けて、 263年10月22日 司馬昭、晋公となる。 晋公領は、以下10郡。-------------------…

前漢・後漢の皇帝権のあり方から三国時代の皇帝を考える。

以下に前漢成立から西晋成立までの 皇帝権に関する流れを記載したい。 ------------------------------------------ 皇帝権確立途上期 ↓ 皇帝権確立 ↓ 皇帝独裁 ↓ 【皇帝独裁⇔輔弼の専横】の相克 ↓ 王莽の儒家的理想政治 ↓ 【皇帝独裁⇔輔弼の専横】の相克 ↓…

鄧艾浮かれる。鍾会恨み妬む。衛瓘悪運強し。

鄧艾が263年11月に蜀漢を滅亡させた。 司馬昭は263年10月22日の魏皇帝の詔勅により、 晋公・相国・九錫を受けていた。 その後の快挙である。 漢皇帝劉禅の降伏は、263年の11月とされるが、 姜維の降伏は12月なので、 少なくとも漢皇帝の降伏は、11月の後半で…

鄧艾の、橋頭から江油に至る山越えルート~蜀漢討伐~

※赤線が鄧艾が通った道。広武関の上部が道なき道を行って、鄧艾がフェルトに身を包んで転げ落ちたところ。 鍾会は白水で諸葛緒から軍勢を奪い、南方にある剣閣に向かっていた。 徳陽亭あたりは標高1000メートル。 北の山地は、標高2400メートルぐらい。 標高…

浮かれる司馬昭、漢中掌握で晋公となる。

司馬昭にとって、 蜀漢討伐の成果は漢中制圧までで十分であった。 捷報が続き晋公に推戴される。 とあるが、 これは漢中制圧の功績だ。 やはりこの視点から見ても、 蜀漢討伐に司馬昭が親征しようとしていたとは思えない。 漢中制圧で御の字なのだ。 これ以…

費禕の主張は、決断しないことを決めること~現実的な政治家としてのスタンス~

費禕は非常に器用な人物である。 不真面目で、サボっているように見える、そんな人物だ。 そういう人物は、生真面目な人間からはひどく嫌われる。 二つの側面から、費禕を考えたいと思う。 ①尚書令で漢皇帝の高い信頼を得ていた董允に関する エピソードであ…

諸葛瞻こそ蜀漢滅亡のキーパーソン

諸葛瞻。 一般的な認知は、 魏、というより司馬昭の命による、 鍾会らの蜀漢討伐の際、 綿竹にて鄧艾に敗死したという ものであろう。 諸葛亮の息子として、 蜀漢の滅亡に殉ずるふさわしい死。 このイメージだ。 しかし、そう事は単純ではない。 基本的に諸…

諸葛瞻が黄皓を引っ張り出した。

●諸葛瞻(しょかつせん。諸葛亮の息子。227-263年)の登場が蜀漢を破滅に向かわせた。 魏が蜀漢討伐を開始した時、 諸葛瞻は、平尚書事・衛将軍であった。 衛将軍は、費禕が存命時のときの姜維の官職である。 費禕は大将軍・録尚書事で、姜維は衛将軍・録尚…

263年魏の蜀漢討伐 第七段階 〜漢皇帝、鄧艾に降伏〜

姜維は巴西郡閬中から、 広漢郡郪へ移動。 鍾会は涪城まで進軍。 胡烈とともに、姜維を包囲しようと軍を展開。 鄧艾は雒城に至る。成都を窺う。 蜀漢軍の主力は、剣閣および姜維とともにあった。 徹底抗戦や南方への撤退の声もあるなか、 漢皇帝は、譙周の提…

263年魏の蜀漢討伐 第六段階 〜諸葛瞻敗死〜

鄧艾は、綿竹の諸葛瞻(しょかつせん)を撃破。諸葛瞻敗死。 姜維は、諸葛瞻敗死を知り、鉄壁の剣閣を捨て、巴西へ移動。 涪城は鄧艾が制圧してしまっていて通れない。 迂回して、 成都へ向かおうとする。

263年魏の蜀漢討伐 第五段階 〜鄧艾、姜維の裏を突く〜

鄧艾、江油を突破、蜀へ侵入する。 涪城にいた、衛将軍・平尚書事の諸葛瞻は、綿竹に撤退。 涪城は今の綿陽市である。 蜀エリアである。 蒋琬が病に伏して漢中から撤退したのがこの涪城である。 南東の巴西に行くにも便利な場所で、 交通の要地である。また…

263年魏の蜀漢討伐 第四段階〜白水にいた諸葛緒を鍾会は更迭。軍勢を奪う。総勢13万人の鍾会・胡烈軍は、姜維の籠る剣閣に迫る〜

鍾会・胡烈の軍勢13万人は剣閣の守りの前に 足止めを喰う。 先方が剣閣に到着しても、最後尾はまだ白水にいるほど、 大軍の進軍も滞っていた。 それを知った、3万の鄧艾軍は、 陰平から江油へ向けて、間道を進み、途中道なき道を進みながら進軍する。 鄧艾は…

263年魏の蜀漢討伐 第三段階 〜姜維、諸葛緒を撒くも、既に関城は鍾会・胡烈に落とされ、剣閣に入る〜

姜維は白水に入った。 白水から東北に向かえば、 関城を経て、陽平関(陽安関)に至る。漢中に入れる。 しかし、この時点で既に関城は魏軍に手に陥ちていた。 城将のひとり蒋舒(しょうじょ)が人事の恨みで、 魏に寝返ったためだ。 魏としては、蜀から漢中…

263年魏の蜀漢討伐 第二段階〜鍾会漢中制圧後〜

姜維は沓中から陰平に撤退する。 鍾会の漢中攻撃をはじめ、 早々にこの状況を把握。 鄧艾軍にこだわらず撤退を急ぐ。 漢中を取られたら元も子もないないからだ。 沓中は、岷山山脈の中にある。 岷山の北側、迭山の南側の 白龍江沿いにある。 岷山山脈は、九…

263年魏の蜀漢討伐 第一段階

沓中への駐屯を確認した魏は、 蜀漢討伐を計画、実行に移す。 鍾会が長安に到着したのは、263年の9月のことである。 鄧艾は、都督隴右諸軍事なので、現地駐在、 諸葛緒は、雍州刺史なので、諸葛緒も現地駐在である。 鄧艾すら反対したこの蜀漢討伐。 賛成者…

漢皇帝劉禅は魏皇帝のアンチテーゼ

※敢えて漢皇帝・蜀漢皇帝という呼称を使って、 事績を考える。 ●蜀漢皇帝・・・ 223年の父帝の崩御を受けて即位。 当時在位40年を迎えていた。 蜀漢建国の経緯から、 諸葛亮が定めた国策北伐を前提に統治。 あの諸葛亮ですら成し得なかった北伐。 益州人たち…

蜀漢の百官の頂点は録尚書事である。

蜀漢の歴史の中で、 録尚書事に任官されているのは、 四人しかいない。 諸葛亮、蒋琬、費禕、姜維の四人である。 それぞれの在任期間は下記となる。 ----------------------- 録尚書事 222-234 諸葛亮 234-246 蒋琬 243-253 費禕 247-263 姜維 -------------…

鄧艾の衝動

予想外だったのは鄧艾の動きだった。 鄧艾は沓中の姜維を攻撃し、撤退させた後、 陰平まで進軍していた。 そこで鍾会が剣閣で立ち往生していることを知る。 剣閣は諸葛亮が構築したとも言われる。 谷間にある鉄壁の要塞。鍾会ならずとも誰しもが陥落させるの…

鍾会の作戦は漢中まで~鍾会⑧~

鍾会の作戦は漢中までだったと思われる。 鍾会が確実に見込んでいたのは、 漢中攻略まで。 それ以後は、状況次第だったと 私は主張する。 漢中は盆地である。 南に蜀、現在の四川省がある。 北に関中、渭水盆地がある。 漢中の北には秦嶺山脈が東西に広がる…

魏が蜀漢をたったの3ヶ月で滅ぼしたのは驚異的である。

蜀の倒し方: 蜀が外部から攻略されたのは、 この三国時代末期の時点では三回ある。 ①後漢光武帝が 蜀の公孫述を攻めた時。 33年から隴西を攻略開始。 光武帝の親征ではなく、 来歙が総大将。来歙は光武帝の遠い姻戚。 来歙は光武帝がまだ世に出ていない時に…

魏晋南北朝時代の対立軸

魏晋南北朝時代の対立軸を下記に 羅列する。 基本的に左記のカテゴリーは全て同じ派閥と考えて良い。 同じく右記のカテゴリーも全て同じと考えて良い。 もちろん法に長じながら、出自は名族の一つに入り、 儒家・保守的な賈充のような存在もいる。 中道寄り…

蜀漢を降伏させる=漢の放伐成功=天命が下る

この蜀漢は、 劉備と劉禅の主張では、漢を継ぐものであった。 この主張が輿論に十分に通じる証拠がある。 西晋末の劉淵が、304年に漢を建国した時に、 劉淵は当時蜀の後主と言われていた劉禅を継ぐと 主張して皇帝になったのだ。 そして劉淵は、 劉禅に対し…

鍾会 初の挫折 鍾会⑦

士会たれ、士会でありたい。→それぞれ、母張昌蒲と、鍾会の思い。 才性四本論→鍾会としては、才能があれば、実績が上がれば良いという考え。 鍾会の生い立ち→父不在。母の影響が強い。かなりのハードマネジメント。 257年の母の死後、その屈折した感情が徐々…

姜維 漢に仕える経緯

253年 南安攻撃 254年6月 洮西を獲得。 255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。) 256年 段谷の戦い 257年 駱谷道から進撃 262年 候和の戦い の計6回である。 253年から257年まで5年連続で戦役…

姜維の北伐は6回。

253年 南安攻撃 254年6月 255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。) 256年 段谷の戦い 257年 駱谷道から進撃 262年 候和の戦い の計6回である。 姜維は生年202年-没年264年である。 司馬師は生…

九品官人法の弊害 門地二品

どういう状況か。 日本で言うと、公家の家格により、極官が決まっていることと同じ。 摂関家以下、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家など。 摂関家しか、摂政関白になれない。 清華家は、太政大臣まで。近衛大将・大臣を兼任できる。 (江戸時代は左大臣ま…

何故鍾会が征蜀の総大将か。 鍾会⑥

司馬昭は、 司馬氏生き残りのため、 なんとしてでも蜀漢を討滅させなくてはならなかった。 鍾会は、 自身の才能を認めさせ、成り上がるために、 蜀漢の攻略が必要であった。 蜀漢の討伐に賛成しているのは、 司馬昭と鍾会のみだった。 司馬昭は、鍾会には任…

劉備が前漢景帝の子孫であるという意味

前漢景帝には十四人の男子がいた。 劉備は、景帝の男子の一人である、 中山靖王劉勝の子孫と称している。 劉勝は、九男である。母は賈夫人。 景帝の崩御後、後を継いだのは、 十男の武帝劉徹である。母は王皇后。 漢を復興させた、後漢光武帝は、 七男長沙定…

漢の諸葛丞相が攻めてきた、その思想的意義

漢の諸葛丞相は、 魏賊を討伐するために北伐を敢行する。 劉備が漢皇帝位を継いだ経緯から、 これは至上命題である。 漢中から魏を攻撃するわけだが、 秦嶺山脈を超えた先には、 関中平野がある。 長安は前漢の都であった。 民衆にとっては つい数年前まで、…

「蜀」「蜀漢」ではない、「漢」である。

三国志において、 劉備が創業した国は、一般的に「蜀」と呼ばれる。 しかし、劉備たちは、自国のことを 「漢」と呼んでいた。 または、末っ子の漢ということで、「季漢」とも呼んでいる。 241年に蜀(蜀漢、漢)の楊戯が著した 「季漢輔臣賛」という本もある…

鍾会の主張は実力主義・成果主義=鍾会の「才性四本論」= 鍾会⑤

鍾会の著書「才性四本論」における 「性」とは何を指すのか。 それは人柄を指す。 王莽、光武帝以来、後漢では、 儒教思想で素晴らしいとされる人が採用されてきた。 人材採用、具体的な方法は郷挙里選である。 各選抜項目があるがその中で最も重要視された…

鍾会の本心〜母の死後に馬脚を現す鍾会〜鍾会④

鍾会の、母の存命中の事績は少ない。 しかし、母の死後の鍾会の成果は全て狡猾で、 なんともアクの強いエピソードばかりである。 四書五経を修め、それに則って行動したとはとても思われない。 春秋晋の士会のような、真っ直ぐさもない。 孟母顔負けの鍾会の…

鍾会の生い立ち 鍾会③

【鍾会の出生】 【鍾会の父鍾繇】 【鍾会の母とは】 【鍾会 母の影響 マザコン】 ーーーーーーーーーーーーーーー 【鍾会の出生】 鍾会は、鍾繇の子である。 鍾会は生年225年ー没年264年、 父鍾繇が74歳の時の子供である。 (数えでは75歳) 鍾会の出生は曰…

鍾会の思想〜才性四本論:人材とは、評価とは〜鍾会②

【鍾会の思想 才性四本論 人材とは、評価とは】 鍾会は、著書の一つとして「才性四本論」を書いている。 これは、二つの意味で重要だ。 一つ目は、鍾会自身が志向したあり方。 二つ目は、魏末における人材およびその評価の判断軸がわかるという点。 これは…

鍾会は「士会」である。 鍾会①

【鍾会の字に秘められた思い~鍾会は士会である】 ●鍾会は19歳に官途につく。 その際に自身の字を決めたと思われる。 礼記では、20歳で加冠し字を決めるとある。 官途につく、すなわち社会人になるということは、 身内ではない他者との交流をすることであり…

司馬昭は鍾会に賭けた=蜀漢への遠征=

司馬昭は後がなかった。 ここで王莽の道を取らないと、 最終的には自身もしくは子孫は滅びる。 そのぐらい、中国の思想というのはしっかりしている。 現時点で、司馬昭は、梁冀・董卓に並ぶ。 皇帝を弑逆している。梁冀・董卓は毒殺だが、 司馬昭は自身の命…

司馬昭は何故征蜀を思い至ったか。=禅譲のみが唯一の救い=

賈充の曹髦弑逆(260年)で、司馬昭は禅譲への道を歩まざるを得なくなった。 分かりやすい実績を挙げることが必要となった。 そこで挙がったのが、蜀漢の討滅である。 司馬昭は兄司馬師の死で、突如司馬氏を 担うこととなった。 司馬昭は誰とでも広く付き合…

司馬望③:司馬孚・司馬望父子の、河内司馬氏としての在り方

司馬孚の次男司馬望は、 司馬朗家を継いだ。 司馬孚は司馬望を後見する。 族長である、 兄司馬懿が死去すると、 司馬懿家も、一族の長老として後見する。 と言っても、司馬師・司馬昭はもう中年期に入っているので、 支援する程度である。 司馬懿家は、司馬…

司馬望②:魏晋における名族の長は誰になるかに関する考え方

司馬望は、司馬八達の長男家を継いだ。この立場は、河内司馬氏においてどのようなポジションになるのだろうか。ところで、 この河内司馬氏は、養子縁組が兄弟間でとても多い一族だ。 何かポリシーのようなものがあったのか、それとも兄弟が仲がよかっただけ…

司馬望①:司馬望は司馬朗を継いだのではなく、司馬朗の嫡子早逝により、養子となり後を継いだ。

魏皇帝曹髦が交流を深めた、四人のうち、 司馬望という人物がいる。 司馬望は生年205年 - 没年271年である。 司馬懿の弟、司馬孚の次男である。 司馬望こそ、この時代の名族、支配者階級の典型的なスタンスだ。 司馬望について説明したい。 司馬望は、早い段…

249年正始政変から265年西晋成立までの五つの反乱

①251年王凌の乱→伝統的儒家名族の反乱。 ②255年毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽の乱 →魏の武官の反乱。 ③257年諸葛乱の乱 →余分。賈充が吹っ掛けた。 必要のないものだったからこそ、激戦。 ④260年魏皇帝曹髦弑逆される。 ⑤264年鍾会の乱→玄学清談派である鍾…

採用基準~後漢から魏末までの思想変化~

後漢は孝廉が採用の基準。 儒教的概念から、孝行などができるかがポイント。 後漢末で変わった。 それは曹操のせい。 曹操が袁紹を官渡の戦いで破ってから変わった。 曹操は孫子に注釈をつけるような人物。 軍事にも精通していた。 対して袁紹は名族の出身。…

清談の祖は曹操だ

玄学清談とは何か。 様々な説明があるが、 一言で言うと、これは哲学と人物評価のことである。 では哲学とは何か。 物事を抽象的に論理アプローチで理解することである。 物事ひとつひとつを論理的に考える。 様々な論理的に考えると、 抽象的に概念が見えて…