歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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三国時代

鍾会 初の挫折 鍾会⑦

士会たれ、士会でありたい。→それぞれ、母張昌蒲と、鍾会の思い。 才性四本論→鍾会としては、才能があれば、実績が上がれば良いという考え。 鍾会の生い立ち→父不在。母の影響が強い。かなりのハードマネジメント。 257年の母の死後、その屈折した感情が徐々…

姜維 漢に仕える経緯

253年 南安攻撃 254年6月 洮西を獲得。 255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。) 256年 段谷の戦い 257年 駱谷道から進撃 262年 候和の戦い の計6回である。 253年から257年まで5年連続で戦役…

姜維の北伐は6回。

253年 南安攻撃 254年6月 255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。) 256年 段谷の戦い 257年 駱谷道から進撃 262年 候和の戦い の計6回である。 姜維は生年202年-没年264年である。 司馬師は生…

九品官人法の弊害 門地二品

どういう状況か。 日本で言うと、公家の家格により、極官が決まっていることと同じ。 摂関家以下、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家など。 摂関家しか、摂政関白になれない。 清華家は、太政大臣まで。近衛大将・大臣を兼任できる。 (江戸時代は左大臣ま…

何故鍾会が征蜀の総大将か。 鍾会⑥

司馬昭は、 司馬氏生き残りのため、 なんとしてでも蜀漢を討滅させなくてはならなかった。 鍾会は、 自身の才能を認めさせ、成り上がるために、 蜀漢の攻略が必要であった。 蜀漢の討伐に賛成しているのは、 司馬昭と鍾会のみだった。 司馬昭は、鍾会には任…

劉備が前漢景帝の子孫であるという意味

前漢景帝には十四人の男子がいた。 劉備は、景帝の男子の一人である、 中山靖王劉勝の子孫と称している。 劉勝は、九男である。母は賈夫人。 景帝の崩御後、後を継いだのは、 十男の武帝劉徹である。母は王皇后。 漢を復興させた、後漢光武帝は、 七男長沙定…

漢の諸葛丞相が攻めてきた、その思想的意義

漢の諸葛丞相は、 魏賊を討伐するために北伐を敢行する。 劉備が漢皇帝位を継いだ経緯から、 これは至上命題である。 漢中から魏を攻撃するわけだが、 秦嶺山脈を超えた先には、 関中平野がある。 長安は前漢の都であった。 民衆にとっては つい数年前まで、…

「蜀」「蜀漢」ではない、「漢」である。

三国志において、 劉備が創業した国は、一般的に「蜀」と呼ばれる。 しかし、劉備たちは、自国のことを 「漢」と呼んでいた。 または、末っ子の漢ということで、「季漢」とも呼んでいる。 241年に蜀(蜀漢、漢)の楊戯が著した 「季漢輔臣賛」という本もある…

鍾会の主張は実力主義・成果主義=鍾会の「才性四本論」= 鍾会⑤

鍾会の著書「才性四本論」における 「性」とは何を指すのか。 それは人柄を指す。 王莽、光武帝以来、後漢では、 儒教思想で素晴らしいとされる人が採用されてきた。 人材採用、具体的な方法は郷挙里選である。 各選抜項目があるがその中で最も重要視された…

鍾会の本心〜母の死後に馬脚を現す鍾会〜鍾会④

鍾会の、母の存命中の事績は少ない。 しかし、母の死後の鍾会の成果は全て狡猾で、 なんともアクの強いエピソードばかりである。 四書五経を修め、それに則って行動したとはとても思われない。 春秋晋の士会のような、真っ直ぐさもない。 孟母顔負けの鍾会の…

鍾会の生い立ち 鍾会③

【鍾会の出生】 【鍾会の父鍾繇】 【鍾会の母とは】 【鍾会 母の影響 マザコン】 ーーーーーーーーーーーーーーー 【鍾会の出生】 鍾会は、鍾繇の子である。 鍾会は生年225年ー没年264年、 父鍾繇が74歳の時の子供である。 (数えでは75歳) 鍾会の出生は曰…

鍾会の思想〜才性四本論:人材とは、評価とは〜鍾会②

【鍾会の思想 才性四本論 人材とは、評価とは】 鍾会は、著書の一つとして「才性四本論」を書いている。 これは、二つの意味で重要だ。 一つ目は、鍾会自身が志向したあり方。 二つ目は、魏末における人材およびその評価の判断軸がわかるという点。 これは…

鍾会は「士会」である。 鍾会①

【鍾会の字に秘められた思い~鍾会は士会である】 ●鍾会は19歳に官途につく。 その際に自身の字を決めたと思われる。 礼記では、20歳で加冠し字を決めるとある。 官途につく、すなわち社会人になるということは、 身内ではない他者との交流をすることであり…

司馬昭は鍾会に賭けた=蜀漢への遠征=

司馬昭は後がなかった。 ここで王莽の道を取らないと、 最終的には自身もしくは子孫は滅びる。 そのぐらい、中国の思想というのはしっかりしている。 現時点で、司馬昭は、梁冀・董卓に並ぶ。 皇帝を弑逆している。梁冀・董卓は毒殺だが、 司馬昭は自身の命…

司馬昭は何故征蜀を思い至ったか。=禅譲のみが唯一の救い=

賈充の曹髦弑逆(260年)で、司馬昭は禅譲への道を歩まざるを得なくなった。 分かりやすい実績を挙げることが必要となった。 そこで挙がったのが、蜀漢の討滅である。 司馬昭は兄司馬師の死で、突如司馬氏を 担うこととなった。 司馬昭は誰とでも広く付き合…

司馬望③:司馬孚・司馬望父子の、河内司馬氏としての在り方

司馬孚の次男司馬望は、 司馬朗家を継いだ。 司馬孚は司馬望を後見する。 族長である、 兄司馬懿が死去すると、 司馬懿家も、一族の長老として後見する。 と言っても、司馬師・司馬昭はもう中年期に入っているので、 支援する程度である。 司馬懿家は、司馬…

司馬望②:魏晋における名族の長は誰になるかに関する考え方

司馬望は、司馬八達の長男家を継いだ。この立場は、河内司馬氏においてどのようなポジションになるのだろうか。ところで、 この河内司馬氏は、養子縁組が兄弟間でとても多い一族だ。 何かポリシーのようなものがあったのか、それとも兄弟が仲がよかっただけ…

司馬望①:司馬望は司馬朗を継いだのではなく、司馬朗の嫡子早逝により、養子となり後を継いだ。

魏皇帝曹髦が交流を深めた、四人のうち、 司馬望という人物がいる。 司馬望は生年205年 - 没年271年である。 司馬懿の弟、司馬孚の次男である。 司馬望こそ、この時代の名族、支配者階級の典型的なスタンスだ。 司馬望について説明したい。 司馬望は、早い段…

249年正始政変から265年西晋成立までの五つの反乱

①251年王凌の乱→伝統的儒家名族の反乱。 ②255年毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽の乱 →魏の武官の反乱。 ③257年諸葛乱の乱 →余分。賈充が吹っ掛けた。 必要のないものだったからこそ、激戦。 ④260年魏皇帝曹髦弑逆される。 ⑤264年鍾会の乱→玄学清談派である鍾…

採用基準~後漢から魏末までの思想変化~

後漢は孝廉が採用の基準。 儒教的概念から、孝行などができるかがポイント。 後漢末で変わった。 それは曹操のせい。 曹操が袁紹を官渡の戦いで破ってから変わった。 曹操は孫子に注釈をつけるような人物。 軍事にも精通していた。 対して袁紹は名族の出身。…

清談の祖は曹操だ

玄学清談とは何か。 様々な説明があるが、 一言で言うと、これは哲学と人物評価のことである。 では哲学とは何か。 物事を抽象的に論理アプローチで理解することである。 物事ひとつひとつを論理的に考える。 様々な論理的に考えると、 抽象的に概念が見えて…

曹髦 儒家伝統を踏まえた論理的結論は論理的特攻。

曹操を彷彿させるような、曹髦のスタンス。 儒家的名族の王祥を師父として学ぶ。 王沈・裴秀・司馬望・鍾会とともに、 学問を議論する。 この四人は師ではないのだ。 この見識を持って、自身を論理的に考えたであろう。 皇帝なのに、実権がない。 本来あるべ…

魏後廃帝曹髦とは何者か。

・曹髦は、儒家思想と玄学清談の両方に通じていた。 ・側近は、反司馬氏で固められている。 ・魏の皇帝らしく、詩や文学に通じていた。 結論として、武略は未知数だが、相当に学問を修めた優秀な皇帝と言える。 曹髦は、生年241年11月15日(正始2年9月25日)…

司馬昭にビジョンなどなかった。なし崩し的禅譲への道。

司馬昭は、流れに乗る他なかった。 元々ビジョンがあったとは考えられない。 司馬懿の怒りは正始政変を引き起こした。 晩年を迎えた司馬懿の最後の一手だったかもしれない。 後を継ぐ司馬師の、後継体制を見据えたうえでの一手だったかもしれない。 いずれに…

司馬昭は人が良かった。

司馬昭は、私は人が好い人物だったと考える。 理由は下記三点である。 ①諸葛誕の乱で、賈充に騙される。 ②曹髦を賈充が弑逆しても、賈充を罰することができない。 陳泰に慌てて相談し賈充を殺せと言われたにもかかわらずだ。 ③蜀討伐を鍾会に勧められ、実行…

賈充はついに皇帝を人間にした。~満天下で初めての皇帝弑逆~

260年、 皇帝が初めて、青天の下、衆目のある中で殺された。 密室の毒殺などではなく、 確実に臣下に殺されたのはこれが初めてである。 魏の皇帝曹髦が、賈充の指揮の下、 成済が曹髦を刺殺した。 あまりのことで、この事件は、名称がない。 三国志を著した…

賈充は功名心のために諸葛誕を陥れた。焦っていた。賈充は出遅れていた。

賈充は焦っていた。 不安に苛まれていた。 四つの理由がある。 ①賈充は曹爽一派であった。 →正始政変で曹爽一派は滅亡。 ②賈充は李豊の娘婿だった。 →李豊の変で、李豊は誅殺される。 ③賈充の父は法家だった。 →魏の厳しい法家を嫌い、儒家の寛容の政治を志…

司馬師の儒家シフトが、旧勢力の反乱を引き起こす。

奇しくも、 東興での敗戦が、司馬師の 政治スタンスの表明になった。 諸将を罰せず、自己に責任があるとする。 これこそ儒家のスタイル。 周公旦の目指したスタイルだ。 これにより、名族の支持を得ることになる。 合わせて、旧勢力の反発を引き起こす。 そ…

魏末司馬氏政権のときの三たび揚州の乱①=251年王凌の乱=

正始政変以後、 251年の王凌の乱 255年の毌丘倹・文欽の乱 257年の諸葛誕の乱 と三つ続く。 これは、司馬懿が揚州のみ直接軍勢を率いたことのなかったためだ。 荊州(宛・襄陽方面)・雍州(長安方面)は司馬懿がそれぞれの諸軍事に 任官されていたので、司…

司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹③

実は名族の系譜において、 司馬懿の前は袁紹なのである。 袁紹が200年に官渡の戦いで曹操に敗れて以来の 名族政権が249年正始政変(高平陵の変)で実現したのだ。 実に50年ぶりに名族が力を握った。 袁紹はどのような人か。 袁紹はとかく「三国志演義」など…