歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

中国 人口の歴史

徙民政策⑤の集大成・宇文泰の「関中本位政策」

さて、徙民政策の結論である。 徙民政策の集大成は宇文泰が作る。 曹操、曹丕以来の徙民政策を 大規模な国家戦略へと変化させ、後の隋唐の繁栄を創出する。 ●徙民政策の総仕上げは宇文泰である。「関中本位政策」 北周の事実上の祖、 宇文泰こそが、この徙民…

徙民政策④最大限活用する前秦と北魏。

徙民政策を完成させた後趙と前燕。 ●前秦苻堅は滅ぼした敵対勢力を全て長安へ移住させる。 ・前秦の人口対策 ・前秦苻堅の儒教的発想 ●北魏の華北統一で大規模な徙民政策はひと段落する。 ●徙民政策で民族シャッフルが進んだ華北 これを受けて、 前秦と北魏…

徙民政策③華北異民族の常套手段へ

徙民政策は、曹操・曹丕に始まり、 石勒が完成させ、その後各王朝に受け継がれる。 石虎、前燕、前秦、後燕、後秦、北魏と 数十万人単位の徙民政策を行なって国家体制を固めることとなる。 それほど有用な政策であった。 初めは孤立を補うための政策。 のち…

徙民政策②この政策を石勒が完成させる。

曹操・曹丕により、 政策化した徙民政策。 これを大いに活用するのが、 五胡十六国時代の幕を開けた石勒である。 ●後漢末より大乱だった西晋末 ●最も大規模な徙民政策を行った石勒 ●西晋末の大乱を収めた石勒は中華の人口分布を改造する。 ●関中が無人の野に…

徙民政策①目的と始まった背景について。

徙民政策。 徙民、しみんと読む。 民を徙す(うつす)、移動させるという意味である。 移動させるというより、実態は強制移住と行った方が正しい。 この徙民政策は魏晋南北朝において、国家の存亡に関わる 最重要政策の一つである。 我々日本人にはこういっ…

【二つの解釈】魏文帝曹丕の中都の地への移住策

岡田英弘氏の説によると、 魏は中都の地を定めて、民を強制移住したという伝えている。 しかしそうではなくて、 魏は中都の地を定めたうえで、中都への移住を許すということにしただけ、 という話がある。 岡田氏の説は 魏をはじめ、蜀・呉の三国は、 強制移…

中国史上で約30年で人口が10倍増えた時期がある。

●大幅に人口数が増えている時期がある。 中国の歴史書に記されている人口数は、 戸籍登録人口、実際には 城壁の中に住む、都市人口である。 時の王朝が掌握している人口の数である。 野に暮らしているものや、例えば騎馬に乗って遊牧している 異民族は含まれ…

中国史からみた人口~減少した時期と理由~

(「山川 世界史図録 山川出版社」を元に、独自にグラフを作成。) 大幅に人口が減少しているのは、 上記によると、4つの時期がある。 ・280年 ・764年 ・1006年 ・1717年 それぞれ、それ以前に大乱の時代が長く続いた。 それぞれ下記が該当する。 黄巾の乱…

三国志・魏の人口対策について

まずは曹操の異民族討伐。 烏桓を討伐(206年)、中原へ移住させる。 袁煕・袁尚兄弟の追撃の結果ではあったが、 人口増・兵力の増強に役に立った。 その後、岡田英弘氏によれば、魏文帝の221年、 北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は郯、西は宜陽に …

三国志における人口対策は「人さらい」

~人口対策は人をさらってくることだった~ いわゆる中国と言われる地域は、この時代人口が過酷なぐらい減少した。 三国時代には、 人口が8分の1に減少。凄惨と言われるドイツ三十年戦争でも、人口が3分の2、もしくは3分の1に減るところまでだった。 この683万…

三国志の時代、中国大陸には人口680万しかいない。

歴史的な書物から、中国史上の人口がわかる。 ●前漢平帝 西暦2年 5959万人 1223万戸 出典「漢書・地理誌」 ●光武帝崩御の年 57年 2100万人 427万戸 出典「後漢書・郡国志」 ●後漢桓帝 157年 5648万人 1067万戸 出典「晋書・地理誌」 ●魏元帝 263年 443万人 6…