歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

中国(チャイナ)の地理

刊溝=呉王夫差が作った軍事施設としての運河=

刊溝。 これは運河である。 ●刊溝はどこにあるか。 ●刊溝はいつ作られたか。 ●刊溝を作った呉王夫差の目的 ●越王勾践も邗溝を活用する。 ●呉楚七国の乱で前漢の呉王劉濞が邗溝を活用。 ●後漢末から三国時代の刊溝 孫権も使う。 ●西晋時代の刊溝は平和利用。 …

鄴の東を下にして地図を見る~覇者の地・鄴~

鄴は曹操が本拠地を置いた時から、 覇者の地としての歴史が始まるのである。 洛陽⇔幽州(北京)間の回廊、その真ん中に鄴はある。 (引用元:地図で訪ねる歴史の舞台 帝国書院 ※武藤加筆) ここ鄴を抑えることが華北の覇者としての条件となる。 覇者の地とし…

洛陽よりも鄴 曹操に始まる中原の覇者の都・鄴~鄴の歴史⑦

●曹操の本拠は鄴 ●鄴に本拠を置いたのは袁紹が先 ●鍾繇が曹操にとって極めて重要な人物であるその理由 ●洛陽が本拠ではダメなのか。 ●本来は鄴を中心に馬と中原を押さえれば中華統一だった。 曹操が鄴に本拠を置いたことは 案外と認識されない。 ゲームの影…

鄴エリア 中華王朝の帝国化が鄴エリアの内地化を推進する ~鄴の歴史⑥ 秦から後漢まで

●秦の勝利: ●漢による中華統一: ●秦の勝利: 秦、趙、斉の三つ巴の戦いは、 秦の勝利に終わる。 高い文化、文明、 騎馬、 法制度、 優秀な人材、 肥沃な大地 これが全て揃ったのが 秦だった。 一番の違いが、法制度による統治なので、 これがピックアップ…

鄴エリアの隆盛~鄴(邯鄲)エリア⇔山西高原モデルで戦国趙は秦と最後までやりあう。~鄴の歴史⑤ 戦国時代後半

●戦国時代は、秦・趙・斉による三つ巴の戦い: ●秦、趙、斉以外の戦国七雄: ●燕: ●楚: ●韓: ●魏: ●戦国時代は、秦・趙・斉による三つ巴の戦い: ※戦国趙における「鄴」エリアは邯鄲のことである。 趙は邯鄲の南に長城という名の防壁を築いていた。 その…

鄴エリアの勃興~戦国趙の強みに気付いた武霊王~鄴の歴史④ 戦国時代

●戦国時代 都市国家の発展 ●鄴エリア(趙は邯鄲)と山西高原のアクセス 馬がものを言う。 ●戦国時代 都市国家の発展 春秋時代の末期は、 江南の呉と越が強かった。 鉄が産出され、 軍事的にも農耕的にも大きな影響を及ぼしたからだ。 それまでは青銅器である…

「鄴」エリアの重要性は商王朝から~鄴の歴史①~

鄴エリアの重要性は商王朝が本拠を置いたことから始まる。 ここは、中原と山西高原の結節点であった。商王朝は、山西高原の出身である。

「鄴」の地政学的位置づけ

鄴という都市は、南北朝の終わりまで華北の争乱に常に絡む。 隋唐以降、中華帝国は世界帝国となり、鄴は内地としての意味合いが強くなるが、それまでは、軍事的な要地であった。 ここを確保したものが華北を掌握すると言える。趙武霊王、曹操、石勒、前燕慕…

洛陽が中国の原点

中国大陸を中心とした世界。 北はモンゴル、バイカル湖まで、 東は満州、朝鮮半島まで、 西は、敦煌など西域まで、 南は、昆明やベトナムまで、 を範囲としたエリア。 それより先は、海、山、砂漠などに通行を阻害される。 北は馬などの家畜が豊富。 東は、…

魏が蜀漢をたったの3ヶ月で滅ぼしたのは驚異的である。

蜀の倒し方: 蜀が外部から攻略されたのは、 この三国時代末期の時点では三回ある。 ①後漢光武帝が 蜀の公孫述を攻めた時。 33年から隴西を攻略開始。 光武帝の親征ではなく、 来歙が総大将。来歙は光武帝の遠い姻戚。 来歙は光武帝がまだ世に出ていない時に…

独立できないチャイナプロパー 5つの地域

チャイナプロパーは、4つの大地を持つ。 華北平原、 渭水盆地、 蜀、 山西高原、 の4つのエリアだ。 これに付け加えて、 漢中、隴、洛陽盆地、山東省(つまり春秋戦国の斉のエリア)、荊州の 5つは 割拠はできるのだが、 上記4つのエリアから独立はできなっ…

邯鄲⇔晋陽の高いアクセス性(上党を中心に東西にアクセス)

山西高原には二つのエリアがある。 ①山西高原のメインエリア ②上党郡 「刑、信都、襄国、巨鹿」「鄴」「安陽・殷墟」「中山国・中山・石家荘」 山西高原から太行山脈を抜けた先にあるのが邯鄲である。 山西高原には二つのエリアがある。 ①山西高原のメインエ…

漢中、蜀と関中をつなぐ「置石」

なお、もう一箇所割拠できる独立したエリアがある。 漢中だ。 漢中は、北に秦嶺山脈、 南は蜀に連なる山脈があり、 南北共に直行するには蜀の桟道を通らなくてはならない。 普通の感覚で言うと、道が作れないエリアだ。 渭水盆地から蜀に行くには、この漢中…

チャイナプロパー(中国本土)、4つの大地

①華北平原・・・ ②渭水盆地・・・ ③蜀・・・ ④山西高原・・・ チャイナプロパー(中国本土)には4つの大地がある。 ①華北平原 ②渭水盆地 ③蜀 ④山西高原 だ。 この5つは、それぞれ完結できるエリアである。 地域を川・山・海の三つの要素で区切ることができ…

北京の景色〜飛行機からの写真〜

上記二枚は北京の上空から私が撮った写真である。(1月) 空から見ると、 樹木が人口的に植えられたものが中心であることがわかる。 気温は根室とほぼ同じ。 この日の湿度は、6%。日本ではあり得ない湿度だ。 かなり乾燥するので、女性の乾燥対策は必須との…

中国は本当は色々な「国」が集まっている 〜北京現地レポート〜

北京の人に聞くと、 例えば四川省の人とは、同じ文化の人とは思えないそうだ。 長安もそうだ。 私のような日本人からすると、 不思議な感じがする。 いわゆる中国は、例えば長安とか洛陽とかの 古代の都を受け継いだ、中国であり、 その首都が北京なのだが、…

北京は『北の都』ではない、真ん中なのだ。都はやはり「中央」 にある。

私はいま北京に来ている。 北京は古くは幽州と呼ばれ、 ほの暗い辺境の地として扱われた。 君主の諡号として「幽」は「霊」と 並んで最低のものだから、 当然北京は全く良いイメージはない。 また北京はその名に「北」という感じが入っている。 何かチャイナ…

「中原」の場所 泰山の地政学的役割

西周時代の中原とは、洛陽から泰山の間である。 「中原」という概念は時代によって変わるという濁した言い方が多いが、 洛陽から泰山が中原だ。 まず大河である、黄河・長江によって二つの線が描かれる。 一番東端は海。 南端も海。 北端は万里の長城。高い…

黄河の流路は移り変わる。

黄河流路は時代時代によって変わる。 華北の大きな濠とも言える黄河を確実に押さえると、歴史がよりクリアに見える。

匈奴冒頓単于の王庭(本拠地)・ウランチャブ市(内モンゴル自治区)

大同市からまっすぐ北に北上すると、陰山山脈に突き当たる。 ここがウランチャブ市だ。大同から100㎞の位置にある。 ここの北の山脈は断崖になっている。山脈を越えるとゴビ砂漠だ。 ここから東に向かうと張家口、ここで大興安嶺にぶつかる。 張家口から南東…

匈奴の冒頓単于はどこにいたのか。

なぜ、代は異民族に狙われるのか。 それは異民族にとっての首都ともいえるエリアから 至近距離にあるからだ。 本当に代はよく出てくる。 葪(幽州。今の北京市周辺)よりも頻出だ。 なぜなのかと思っていたらちょうどほかのことを調べているときに、 この理…

異民族にとっての代(平城・大同市)

紀元前200年白登山の戦いは、 ちょうど統一政権が作られた、 北方遊牧民族と漢民族統一政権の戦い。 これが満州族の清朝が滅びるまで、 常に中国大陸の歴史に大きな影響を及ぼしてきた。 この白登山の戦いはもっとピックアップされていい戦いだ。 しかし、こ…

光武帝と曹操の漢中の攻め方

後漢の光武帝劉秀は、 33年に隴の隗囂(カイゴウ)をうち隴を制圧。 その後、岐山・武都経由で漢中に進出、 最終的に蜀の公孫述を滅ぼした。(36年) 隴・蜀征討軍の総大将は来歙(ライキュウ)。32年に来歙は略陽を急襲。 33年には天水を攻略。 34年に冀を…

劉邦 漢中からの攻め方

孔明以前に漢中・関中で出兵した人たちはどのルートを通ったか。 劉邦は、「暗渡陳倉」である。 「明修桟道、暗渡陳倉」ともいう。三十六計の八つ目。 項羽に嫌われた劉邦は、漢中に封じられる(紀元前206年)が、 蜀の桟道(斜谷道・褒斜道)を焼いてしまう…

隴ってどこ?

天水が隴だった。(隴右) 狄道が隴だった。(隴左) 諸葛孔明の北伐を調べるにあたり、 天水と関中が山脈によって隔たれていることを知った。 関中の一番左が陳倉、そこから 山を越えると天水がある。 エリアが違うのだ。 だから、魏としては諸葛孔明がどっ…

漢中⇔関中ルート5 関山道

秦嶺山脈の最も西側を通る。 漢中から陽平関を出て、下弁、岐山を経て天水に至る。 距離は長いが、比較的平坦な道である。 諸葛孔明の第一次北伐(228年春)の際の孔明本隊、 第三次北伐(229年春)の際の武都・陰平攻略(陳式が担当)の際に 使われた。画像…

漢中⇔関中ルート4 故道

陽平関を出て、褒斜道のさらに西から散関を抜けて陳倉へ出る道。 曹操が漢中の張魯攻略(215年)に使った道であり、 諸葛孔明が第二次北伐の時に使った道でもある。 故道からの出口を塞ぐ陳倉を曹真が強化しており、 守将・郝昭の抵抗により、撤退させられた…

漢中⇔関中ルート3 斜谷道(褒斜道)

褒斜道=斜谷道 漢中側の褒水の流れる谷間・褒谷と、関中側の斜水の流れる谷間・斜水、および両水の上流は陸地(つまり頂上)、これらを褒斜道と呼ぶ。 漢中盆地の中心地・南鄭(漢中とも呼ぶ)から真北に進み、そのまままっすぐであれば陳倉(後の鳳翔、今…

漢中⇔関中ルート2 駱谷道

駱谷道 長安の西50キロあたりから標高3771メートルの太白山の手前を南下し、 漢中東方40キロ成固に至る。 244年に興勢の役で曹爽・夏侯玄・郭淮ら10余万の魏軍がこの道を通り漢中へと侵攻。 王平が駱谷道中の興勢山、黄金谷の進路を塞いでそれ以上、敵軍の侵…

漢中⇔関中ルート1 子午道(子牛谷)

子午道 漢中から長安へ向かう最短ルート。 長安の南から、漢中盆地の東端(南鄭から100キロ)に出る。 最も東側。諸葛孔明の北伐の際、 魏延が主張していた侵攻ルート。 諸葛孔明は、このルートは使わなかった。