中華皇帝とは
●拓跋珪が国号を「魏」にした理由をでっちあげる後世。 ●封地に由来する国号。 ●「漢王朝永続論」 ●禅譲論か、漢王朝永続論かで国号の決め方が変わる。 鮮卑拓跋氏大人一族の生き残り、 拓跋珪により、386年1月代が復活するが、 同年386年4月、すぐに国号を…
●異民族を打倒した西晋司馬炎は「英雄」である。 ●104歳で死去したとされる拓跋力微が北魏の始祖 ●拓跋力微の死後の身内争い ●異民族を打倒した西晋司馬炎は「英雄」である。 拓跋力微を西晋の衛瓘は謀略で敗死。 これで、 西晋司馬炎は匈奴だけではなく、北…
●異民族の皇帝から脱皮しつつあった苻堅 ●姚萇、苻堅縊死後長安を奪取。 ●孤立する姚萇羌族姚氏集団 ●前秦苻登との泥仕合 ●前秦苻登の失策。 ●姚萇の反撃、苻登の大敗。 ●参考図書: ●異民族の皇帝から脱皮しつつあった苻堅 皇帝を殺すという大チョンボを犯…
●司馬倫とは ●軍閥化 ●桓玄と司馬倫の家庭環境。 ●桓玄、司馬倫は皇帝を尊重しない ●皇帝という権威を崩壊させた、司馬倫と桓玄。 桓玄は西晋を亡国へ導くきっかけとなった、 司馬倫に 非常に似通っている。 ●司馬倫とは 司馬倫とはだれか。 司馬倫は、 狭義…
420年に東晋は劉裕の手により滅亡する。 その後100年強を南朝と呼ぶ。 ●軍人皇帝―貴族名族の密約こそが六朝文化を爛熟させる。 ・国防の担い手を探す貴族名族たち ・劉裕と貴族名族の結託 ●南朝を事実上支配するのは、皇帝になった血筋よりも上位に立つ貴族…
前回まで理想の皇帝が社会の変容によって 価値を失っていく経緯について 述べた。 ●皇帝司馬炎の裏切り ●司馬炎が歴史的に皇帝と諸侯(貴族名族)の関係を破綻させた。 ●皇帝は有名無実であって欲しい、貴族名族の時代 ●意外と復古主義な庾氏三兄弟と桓温 ●…
※dorontaさんのコメントで着想を得ました。感謝いたします。 中華皇帝の価値は時代によって変容する。 皇帝の存在が理想的な時代から、 煙たがられるまでについてここでは述べたい。 ●とてつもなく素晴らしかった皇帝制度 ●農民のリーダーとしての前漢皇帝 ●…
太宗簡文帝司馬昱、この名前の意味。 ●司馬昱が司馬昭を継ぐ。 ●太宗の意味。 ●「唐太宗」 ●簡文帝、つまり「文帝」 司馬昱が皇帝となる、その意味。 ●司馬昱が司馬昭を継ぐ。 太宗簡文帝司馬昱。 廟号が太宗、 諡号が簡文帝である。 これには深い意味がある…
●文武成の意味 ●楚の成王 ●楚は周とは全く別の国なのに中華統一王朝がそれを隠す。 ●文武成の意味 周に始まる、文武成の意味。 それは、 天下を掌握する三段階を意味する。 文=輿論を得る。 武=前王朝を倒す。 成=そうして天下を掌握する。 この伝説。 成…
311年から589年までの時代を、 五胡十六国時代、南北朝時代と呼ぶ。 しかしこれは非常にややこしい。 ●華北王朝が優勢の五胡十六国時代 ●ただの二朝並立、南北朝時代 ●北は「索虜」、南は「島夷」 ●南を正統にしたい、後世の王朝 特に北がややこしい。 その…
319年に至り、いよいよ石勒は趙王として完全独立する。 趙皇帝劉曜からの猜疑を受けて手切れとなったためだ。 劉曜から仕掛けて石勒と手切れとなったが、 彼我の戦力は実は劉曜が劣勢である。 劉曜は、 関中を本拠に河東、河内を支配する。 石勒は、襄国、鄴…
漢人の異民族に対する差別は、近代の白人の、有色人種に対する考えと同じである。 中華の歴史の中で、差別する差別される側というのは、固定していない。 600年から800年のタームで、変化していく。 差別された側が、差別した側を打倒していくのが中華の歴史…
劉淵と白登山との関係は、晋書の意義を考えると見えて来る。 時代が変わると白登山の意義が変わるのである。 前200年白登山の戦いは、4世紀の劉淵にも、 7世紀の唐太宗にも影響を与える。 900年以上に渡って影響力を持ちつづける事績である。 ●晋書の完成を…
●王に留まる意味:称号と劉淵の人物像から探る。 ●何故漢と名乗ったか。 ●なぜ劉淵が漢を選んだ理由が、白登山の戦いに由来するようになったのか。 304年の10月に劉淵は漢を名乗り自立したことになっている。304年の段階で、劉淵が漢と名乗った理由について…
●きっかけは、前200年白登山の戦い ●前漢武帝、中華の雪辱を晴らして、秦の始皇帝とイコールになる。 匈奴の単于を傘下に置くこと、それは中華皇帝にとって、最大の正統性の証であった。 ●きっかけは、前200年白登山の戦い 現在の大同(当時は雁門郡平城。代…
●晋書成立の背景 ●晋書の役割 ●唐が受け継いだ北朝の発端 ●劉淵が漢皇帝と同格でかつ漢皇帝を継承するとした時期 現代中国は政治的な国とよく言われる。 それは中国史において、政治的な対処が明確にしているからではないかと 私は考える。 王朝が全く変わる…
劉淵の独立は二度。その意味の違い。 劉淵、自立の経緯 304年の劉淵独立が漢王にとどまる、その意味 劉淵、二度目の独立。308年10月皇帝になる。 このタイミングでなぜ劉淵は皇帝となったか。 劉淵の独立は二度。その意味の違い。 劉淵の自立は、二回ある。 …
三祖五宗 太祖とは、世祖とは、烈祖とは 劉淵は高祖光文帝。この意味。 劉淵の打ち立てた王朝、匈奴漢の宗廟で祀る皇帝は下記である。 三祖五宗 祀る皇帝は下記である。三祖五宗という。 【三祖】太祖高皇帝劉邦世祖光武帝劉秀烈祖昭烈帝劉備【五宗】太宗文…
●天から選ばれた子という天子伝説に則って、劉淵は自立した。 ●祀る皇帝は下記の三祖五宗 劉淵の自立理由は二点だ。 ①匈奴本国の掌握の為である。 ②匈奴の不満を抑える為である。 ●とはいえ304年に自立した劉淵は3年大して動かない。 ●匈奴だけではなく、こ…
この世の持ち主が存在しない異常事態: 飼い犬に手を咬まれた中華皇帝: 西晋東晋過渡期の311年ー318年、下記の重要事件が起きる。 ・司馬越病死⇒軍勢滅亡311年4月 ・懐帝 逮捕(洛陽陥落)311年6月 ・懐帝 処刑313年1月 ・愍帝 逮捕(愍帝、降伏)316年11月…
311年6月に西晋皇帝懐帝が、匈奴漢に捕らわれてから、 中華覇権争奪戦が始まる。 330年9月に石勒が皇帝となり、華北の覇者としての地位を確立するまで続く。 約20年の争乱である。 ①匈奴漢皇帝 劉聡=匈奴優先= ②石勒=異民族・漢人対等融合= ③西晋残党=…
司馬炎はディオニュソス的な生き方を志向した皇帝である。 ディオニュソス的=快楽主義。
下記が歴代中華皇帝の中で在位年数が 長い者から順に挙げたものである。 --------------------- ①清康熙帝61年 ②清乾隆帝60年 ③前漢武帝54年 ④遼聖宗49年 ⑤明万暦帝48年 ⑥南朝梁武帝47年 ⑦遼道宗46年 ⑧明嘉靖帝45年 ⑨唐玄宗44年 ⑩北宋仁宗41年 ⑪蜀漢後主40年…
中国大陸を中心とした世界。 北はモンゴル、バイカル湖まで、 東は満州、朝鮮半島まで、 西は、敦煌など西域まで、 南は、昆明やベトナムまで、 を範囲としたエリア。 それより先は、海、山、砂漠などに通行を阻害される。 北は馬などの家畜が豊富。 東は、…
禅譲までの至らなかったケースが下記4ケースある。 ●諸葛亮: 諸葛亮は非公式に李厳から九錫を受けるようにと勧められている。 229年のようで、第三次北伐で武都・陰平を制圧したタイミングのようだ。 同年孫権が皇帝を称したので、それを受けてなのではな…
王莽以来の禅譲に際して、 九錫のみが共通項である。 諸侯の最高位(王号など)は共通ではない。 政権における最高執権位(宰衡、丞相、相国など)も共通ではない。 孫権はこのような特別な最高執権位についていない。 九錫のみが共通項である。 禅譲直前の…
●元々漢の皇帝のスタイルは劉禅のスタイルだ。 前漢高祖劉邦は、専制君主ではあるが、 実際の政治は丞相に任せる。 丞相をメインに、御史大夫、太尉の三公が政治を動かす。 それが変わったのは、 景帝の時代。 前154年の呉楚七国の乱を勝ち切った景帝は、 皇…
以下に前漢成立から西晋成立までの 皇帝権に関する流れを記載したい。 ------------------------------------------ 皇帝権確立途上期 ↓ 皇帝権確立 ↓ 皇帝独裁 ↓ 【皇帝独裁⇔輔弼の専横】の相克 ↓ 王莽の儒家的理想政治 ↓ 【皇帝独裁⇔輔弼の専横】の相克 ↓…
---------------------------------------------- 【前漢】 高祖 いわゆる郡国制。すなわち皇帝権が中華全土に及ばない。 ↓ 丞相に政治を委託、輔弼。 景帝 前154年呉楚七国の乱にて、皇帝権中華全土に及ぶ。その後丞相廃止。 ---【ここが漢王朝が中華王朝と…
漢皇帝劉禅。 中国史上最も有名な暗愚な皇帝は劉禅だ。 しかし、劉禅は要所要所で政治対立のバランサーとして 出現する。それも意外とぶれない。 姜維と費禕の対立から、漢皇帝劉禅のスタイルをたどる。 費禕を暗殺したからといってすぐには最高権力者にはな…