八王の乱
307年鮮卑拓跋氏の大人を拓跋猗盧(たくばついろ)が継ぐ。 八王の乱が終わったのが306年末。その後すぐに拓跋猗盧が立つ。 ●八王の乱終結と鮮卑拓跋氏の再結集という拓跋猗盧にとっての好条件。 ●拓跋猗盧と劉琨の同盟 ● 拓跋猗盧と鮮卑慕容部・慕容皝の同盟…
●八王の乱は鮮卑拓跋氏の地位を確立した契機。 ●八王の乱の勝者司馬越側についた鮮卑拓跋氏 ・劉淵に対抗するために司馬騰の要請を受けて鮮卑拓跋氏は動く。 ●鮮卑拓跋氏は拓跋猗盧が再統一する。 ●八王の乱は鮮卑拓跋氏の地位を確立した契機。 258年に鮮卑…
拓跋禄官。 鮮卑拓跋氏の事実上の二代目である。 ●拓跋力微の死後拓跋禄官が大人になるまで内乱。 ●拓跋禄官は鮮卑拓跋氏を三分割して内乱を落ち着かせる。 ●鮮卑拓跋氏の長、拓跋弗の葬儀を弔問する八王の使者 ●拓跋禄官は宇文氏と婚姻。 ●拓跋力微の死後拓…
●幽州の王浚、八王の乱の行く末を左右する ●八王の乱は賈后派と反賈后派=亡き皇太子派の争い ●「并州」と「幽州」が争う八王の乱 ●中華の権力争いに大きな影響を与え始める幽州 ●王浚没後、幽州と遼東が分断。 いよいよ幽州が中華の歴史に 直接関わるシチュ…
まずは司馬穎麾下公師藩のもとで、 八王の乱を戦った異民族の一人が石勒である。 これが始まり。 ●310年までは、黄河北岸の河北エリアで転戦する。 ●石勒の305年から310年の動き。 石勒こそが漢人中華を滅ぼした張本人。 奴隷から皇帝までのし上がった中華史…
匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。 司馬越はこれらに対抗する。 この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。 それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。 ●賈后派と司馬穎派: ●北魏の華北統一は新しい時代の到来を…
●八王の乱から司馬越死去までの流れ: ●304年8月に劉淵が司馬穎軍から離脱した後の動き: ●劉淵の軍事行動 307年までは西晋の枠組みの中で反司馬越 ●劉淵は司馬越が西晋の完全掌握した後に西晋から離反する。 劉淵の漢王としての活動と、漢皇帝としての活動…
●天から選ばれた子という天子伝説に則って、劉淵は自立した。 ●祀る皇帝は下記の三祖五宗 劉淵の自立理由は二点だ。 ①匈奴本国の掌握の為である。 ②匈奴の不満を抑える為である。 ●とはいえ304年に自立した劉淵は3年大して動かない。 ●匈奴だけではなく、こ…
++劉淵に匈奴独立の動機がない++ ++後漢末期の匈奴単于羌渠と同様に殺されかねない状況の劉淵++ 劉淵は親西晋、羌渠と同じ、親中華 ++やむなく自立する劉淵、促したのは左賢王劉宣の現実的な判断++ ++劉淵に匈奴独立の動機がない++ 劉淵のこ…
251年生まれの劉淵は、304年、すなわち劉淵53歳の時に、ずっと中華の中心中原にいたのを、鄙びた田舎の離石に移動して自立する。最晩年のこの大きな変動は個人の人生として幸せだろうか。そこまでして、部族を引き連れなければいけないものなのか。 ++劉宣…
八王の乱の対立図式は、最後に司馬越対懐帝に終着する。 西晋皇帝権の完全失墜 見捨てられた皇帝、懐帝 八王の乱の対立図式は、最後に司馬越対懐帝に終着する。 懐帝は、 司馬顒、司馬穎に連なる。 彼ら司馬顒、司馬穎は司馬倫、恵帝皇太子司馬遹に連なる。 …
鄴という都市は、南北朝の終わりまで華北の争乱に常に絡む。 隋唐以降、中華帝国は世界帝国となり、鄴は内地としての意味合いが強くなるが、それまでは、軍事的な要地であった。 ここを確保したものが華北を掌握すると言える。趙武霊王、曹操、石勒、前燕慕…
八王の乱は五連発の政変を指す。
懐帝の背信行為が最高権力者司馬越を 激怒させる。それは、司馬越自身の甘さと、懐帝の切羽詰まった事情が引き起こしたものだった。
産業革命以前は人の数がイコール権力である。八王の乱はそれが如実に表れた。 戦略も何もあったもんじゃない。
307年初頭における、 司馬越兄弟を中心とした 西晋懐帝勢力と、その敵対勢力について。
司馬穎の政治生命は、 301年4月の司馬倫の対賈后クーデターから頭角を現し、 304年8月鄴陥落、304年12月に皇太弟を廃されて、 事実上政治生命を終えてしまった。 司馬穎の命は、306年10月に終わる。 劉淵の雄飛 石勒の登場 石勒の生い立ち 公師藩の挙兵 汲桑…
八王の乱は難しくはない。 漢民族文明の問題点が全て表出した乱、それが八王の乱である。 表面的な言葉に囚われず、 一つ一つの意味と事象を考えていくと 非常に興味深いものになる。
恵帝がいない今、争乱は泥沼へ。 懐帝が泥沼の八王の乱延長戦を引き起こした。 司馬越は恵帝がいて乱が収まればそれでよかったのだ。
恵帝暗殺の司馬熾の動機とは? 司馬熾は身の危険を感じずにはいられないほど危うい立場であった。
ピックアップされない事実。 後の懐帝、司馬熾は相当に出自が低い。 忘れ去られた王、司馬熾が司馬顒によって政争の道具とされた結果、身に危険が及ぶ。
恵帝毒殺の真犯人は司馬熾、後の懐帝である。
西晋の内乱と異民族の自立。 王浚の自立。 異民族は匈奴、烏桓、鮮卑の登場。
304年が西晋の命運を決める。 西晋の事実上の崩壊、 一方で匈奴を始めとした異民族の 分離活動が活発化する。
306年11月西晋恵帝が麦餅を食べてあたり死亡した。こんなマンガのようなことがあり得るのだろうか。 よく司馬越の仕業と疑われる。 しかし、恵帝が死ぬことで本当にメリットがあった人物がほかにいる。
司馬越の逃亡、司馬穎の逃亡。 305年7月の司馬越の挙兵が 八王の乱を終わらせる。 【司馬越逃亡、司馬穎逃亡】 【鄴の掠奪】 【司馬穎の失脚】 【司馬越挙兵】 【司馬顒の反抗】 【司馬越、政権掌握】
蕩陰の戦いが西晋の運命を決める。 恵帝の親征の意味と、 司馬越の戦下手。
運命の蕩陰の戦い。 恵帝・司馬越 VS 司馬穎・司馬顒。 皇帝と世継ぎの戦い。 歴史上稀有な戦いである。 奇襲によりあっけなく終わる。
生き残ったのは、 1.司馬越 2.司馬睿 3.司馬澹 東晋元帝司馬睿は司馬越勢力である。
出自の悪さは歴史上頻繁に差別される。 畠山義就、豊臣秀吉から、 出自が悪いという差別は何を意味するのか、を考えたい。