歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

北魏

初めて錬丹術の犠牲になる皇帝、北魏道武帝拓跋珪

北魏道武帝拓跋珪。 異民族の皇帝として、数多くの先進的な政策を実施。 拓跋珪は、孫の太武帝に比べると、 あまりピックアップされないが、 五胡十六国時代後半、南北朝、隋唐の歴史を語るには、 必要不可欠な存在である。 ●不老長寿を求めて錬丹術。 ●「鉱…

崔逞の失言?~北魏皇帝と清河崔氏の因縁の始まり~

崔逞(さいてい)。 名族清河崔氏の出身である。 ●名族・清河崔氏は斉の末裔。 ●崔琰、曹操に誅殺されてさらに名を上げる。 ●漢人を掌握するための、清河崔氏。 ●漢人グループのトップとして異民族皇帝とのコミュニケーションに苦労する。 ●清河崔氏、受難の…

北魏の成功要因・失敗要因は漢化したかしなかったか。

北魏の歴史を俯瞰した時に、 漢化というテーマをどう扱うかで、国勢が定まっている。 この扱い方が、成功要因・失敗要因となっている。 ●北魏の成功要因・失敗要因は漢化である。 北魏の成功要因は漢化しないこと。 道武帝、太武帝の向かうところ敵なしの強…

北魏道武帝拓跋珪、6つの革新政策その2「④仏教保護 ⑤「魏」のストーリーを継ぐ ⑥抹殺戦法」

≪①からの続き≫ ●拓跋珪の6つの革新政策。 ●国家主体の仏教保護 ●「④仏教保護」施策 ●中華国家としての在り方。 ●「⑤「魏」のストーリーを継ぐ」施策 ●匈奴の劉淵をベンチマークする拓跋珪 ●異民族は抹殺 ●「⑥抹殺戦法」 ●拓跋珪の凄さは胡漢を分けて考え融合…

北魏道武帝拓跋珪、6つの革新政策その1「①異民族の地に留まる。 ②漢化しない。 ③皇帝集権」

見過ごされがちな道武帝拓跋珪の政策。 しかしながら、 拓跋珪の存在、実績は五胡十六国時代が生み出した成果である。 ●拓跋珪の6つの革新政策。 ●漢化してしまうと滅びてしまう異民族国家 ●漢化しないで、より軍事力を強める。 「①異民族の地に留まる。②漢…

胡漢融合の集大成が唐太宗という存在。

胡漢融合の集大成が唐太宗という存在。 ●唐太宗の時代に胡漢融合が完成する。 ●胡漢融合の歴史を簡潔に述べる。 ●鮮卑による中華征服成る。 五胡十六国時代に始まり、唐太宗の時代に 胡漢融合は完了する。 胡漢融合の歴史を経緯と結論を下記に簡潔に示す。 ●…

拓跋珪の仏教受容

拓跋珪が、 早くから仏教を取り入れていたのは 非常に特徴的である。 ●部族解体された民をまとめるのが仏教。 ●北魏は国家としてはじめて仏教を推進。 ●異民族君主として、仏教を信奉したのは石勒、姚興。 ●中華世界として、初めて仏教を保護したのは孫権で…

鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか③~匈奴にならう拓跋珪。~

「鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか」 ①②で、 国号決定のアプローチについて述べた。 ここでは、拓跋珪が「魏」という国号にした理由を明示したい。 ●鮮卑拓跋氏と「魏」をつなぐ「細い線」 ●もう一度、代ではダメな理由。 ●東晋が有する天命に対抗したい…

鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか②~「魏」との関連を探る。~

●拓跋珪は、何を根拠に魏としたか。 ●なぜ、封地の「代」ではいけなかったのか。 ●封地視点では「魏」は使えない。 ●趙でもよかったのではないか。 ●実は趙と韓には皇帝の国号としてふさわしくない理由がある。 「鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか①」では…

鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか①~禅譲論と漢王朝永続論の対立。~

●拓跋珪が国号を「魏」にした理由をでっちあげる後世。 ●封地に由来する国号。 ●「漢王朝永続論」 ●禅譲論か、漢王朝永続論かで国号の決め方が変わる。 鮮卑拓跋氏大人一族の生き残り、 拓跋珪により、386年1月代が復活するが、 同年386年4月、すぐに国号を…

拓跋珪による本格的漢人統治。北魏皇帝と清河崔氏の因縁の始まり~崔逞の嫌味~

「拓跋珪が初めて異民族皇帝として漢人統治を本気でしようとする。」 ●拓跋珪が崔逞を不敬とする経緯。 ●漢地の統治には漢人官僚が不可欠。 ●東晋返書事件で崔逞を自死させる、二つの意義 ①拓跋珪、漢人をマネジメントする。 ②拓跋珪、崔逞の嫌味を認識した…

北魏道武帝拓跋珪が帝都を平城にする意味。

拓跋珪が代の平城に本拠を置いた理由。 (代はエリア名、平城は都市名である。 平城は現在の大同市) それは、北魏鮮卑拓跋氏帝国の持つ異民族気質を保ちたいと考えたからである。 ●趙襄子により中華となる代。 ●対異民族の最前線、代。 ●前漢文帝が封じられ…

北魏皇帝拓跋珪の集権策~部族解体~

北魏道武帝拓跋珪。 一代で北魏帝国を創業。 親征を多々行い、武勇に優れた人物の印象が強いが、 実は拓跋珪は、これまでの異民族皇帝とは異なった政策を行っている。 その一つが、 「諸部族の解体」である。 目的は、拓跋珪自身、皇帝への集権である。 ●異…

北魏拓跋珪は402年柴壁の戦いで後秦に対して「抹殺戦法」

●402年柴壁の戦いで後秦を大破。 ●オルドスの匈奴鉄弗部がきっかけの、柴壁の戦い ●後秦が北魏の平陽を攻撃した背景。 ●拓跋珪の迅速な親征 ●北魏拓跋珪の成功要因・抹殺戦法 ●402年柴壁の戦い、その後。 ●匈奴鉄弗部赫連勃勃の自立。 ●402年柴壁の戦いで後…

北魏拓跋珪、一気に河北の覇者へ。「参合陂」のその後~

●参合陂の戦いとその後。 ●一気に南下して後秦と戦い幷州まで勢力を伸ばす。 ●太行山脈の東に出て冀州へ侵攻。 ●代の平城へ遷都、皇帝を称する。 拓跋珪が395年参合陂の戦いで後燕に大勝してから、 409年に死去するまで、北魏拓跋珪は破竹の勢いで 勢力を拡…

「子貴母死」・・・後継皇帝になるとその実母は殺される北魏

表題の規則は、 「子貴母死」と呼ばれる。 ●北魏において「子貴母死」が行われることになった背景。 ●「子貴母死」の一般的に伝わる由来 ●前漢武帝の故事にこじつけた北魏 ●北魏「子貴母死」が実施されたのは二回のみ。 これは北魏における制度である。 皇帝…

拓跋珪、セオリー通りの参合陂の戦い、大勝利

●拓跋珪は遊牧民の典型的な戦い方をする。 ●拓跋珪は基本に忠実かつ兵法を大胆に応用する名将。 ●実は慕容垂も遊牧民の正攻法で桓温を撃退している。 ●坂の上に陣取る拓跋珪ら北魏騎兵軍、これもセオリー。 ●遠征で疲れる後燕軍、慕容垂の病状も気になり戦い…

拓跋珪が大幅に支配地を伸ばすのは、慕容垂と手切れになったから。

北魏の事実上の開祖、拓跋珪。 非常に戦いに長けた指導者であり、 一代で河北の覇者となった。 ●395年参合陂の戦いを引き起こす、慕容垂・拓跋珪の断交。 ●拓跋珪は慕容垂の宿敵西燕と手を組む。 ●394年本来の前燕正統政権西燕を慕容垂が滅ぼす。 ●慕容垂、…

傲慢な慕容垂と手切れとなり窮地に陥る拓跋珪

●慕容垂との手切れ。 ●慕容垂の面子。 ●対外情勢から見た背景 ●慕容垂「鮮卑慕容部・燕の正統後継者である俺にひざまづけ」 ●参考図書: 破竹の勢いで北方に勢力権を作る拓跋珪。 391年の時点で弱冠20歳。 前秦を事実上破綻させ、河北の覇者とならんとする慕…

拓跋珪の登場。代の復興、魏の建国。

拓跋珪の登場。 ●鮮卑拓跋氏の嫡流。拓跋珪の系譜 ●匈奴独孤部に匿われる拓跋珪。 ●拓跋珪、代の復興。すぐに魏と国号を変える。 ●これまで通り外交政策、拓跋珪は鮮卑慕容部に従属する。 ●拓跋珪にとっての仇敵、劉顕(匈奴独孤部)と劉衛辰(匈奴鉄弗部)…

拓跋什翼犍は前燕に従属していた。

338年に代を継承、 376年に前秦苻堅に滅ぼされるまで、 代王として君臨した拓跋什翼犍。 見えにくい史実だが、 拓跋什翼犍は前燕鮮卑慕容部に従属をしていた。 ●石虎を裏切って自立する拓跋什翼犍 ●前燕鮮卑慕容部が河北の覇者となる。 ●370年の前燕滅亡とと…

鮮卑拓跋氏前半の年表 258年から376年

鮮卑拓跋氏が258年に魏に認められてから、 376年に前秦苻堅に滅ぼされるまでの118年について。 これが北魏、鮮卑拓跋氏の前半の歴史である。 後半は386年に鮮卑拓跋氏が復興してから、 534年に北魏が宇文泰と高歓の手により東西分裂するまで、である。 重要…

鮮卑慕容部の後援で拓跋什翼犍が独立。

●鮮卑慕容部の後ろ盾を得て鮮卑拓跋氏が自立。 ●鮮卑慕容部の勢力伸長 ●参考図書: ●鮮卑慕容部の後ろ盾を得て鮮卑拓跋氏が自立。 これを機に拓跋什翼犍は鮮卑慕容部と手を結び、 婚姻関係を結ぶ。拓跋什翼犍が石虎から離反したことになる。 拓跋什翼犍の初…

拓跋鬱律だけが中華王朝従属をやめる。

●拓跋鬱律だけが中華に従属しないことを選ぶ。 ●拓跋鬱律は東晋とも断交して身内に殺される。 ●鮮卑拓跋氏内乱のこの時期は中華全体が動乱のとき。 ●拓跋什翼犍、後趙から離反して自立。 ●参考図書: ●拓跋鬱律だけが中華に従属しないことを選ぶ。 拓跋猗盧…

拓跋猗盧、胡漢融合策の失敗。

五胡十六国時代という時代は、 旧来の漢民族文明に、異民族がどのように入り込んでいくのかを問う時代である。 ●拓跋猗盧、胡漢融合の失敗。 ●後継者争いの構図 ●胡漢の領域にまたがって支配権を持つことで交易利権を得た鮮卑拓跋氏 ●異民族か漢化か、その答…

初めて「異民族のまま」中華諸侯になる鮮卑拓跋氏。

八王の乱での対西晋追従が功を奏して 中華諸侯になる鮮卑拓跋氏。 これは中華史における歴史的快挙である。 漢字一文字の国名は中華諸侯の国名である。 「代」の「公」となった 鮮卑拓跋氏の首領、拓跋猗盧(たくばついろ)は、 徹底的に西晋に協力すること…

296年拓跋弗改葬で対西晋追従策を復活させる。

鮮卑拓跋氏、初代拓跋力微死後を下記に記す。 ●異民族の悪癖、後継者争い。 ●拓跋禄官の鮮卑拓跋氏三分割統治。 ●拓跋禄官のデモンストレーション、先代拓跋弗の改葬 ●拓跋弗改葬を機に西晋との修好をもくろむ。 ●のちの八王の乱のメインプレイヤーとつなが…

「徹底した対西晋追従」が鮮卑拓跋氏の成功要因

●258年司馬昭が鮮卑拓跋氏を認めたことが勢力の起源。 ●拓跋力微は西晋と関係を保持して漠北の覇者となる。 ●拓跋力微が目障りになる西晋司馬炎。 ●策士衛瓘の参考記事 ●参考図書: 鮮卑拓跋氏を歴史に登場させたのは、 司馬氏、のちの西晋帝室の司馬氏であ…

拓跋猗盧の隆盛と西晋の瓦解。~北魏の歴史~

307年鮮卑拓跋氏の大人を拓跋猗盧(たくばついろ)が継ぐ。 八王の乱が終わったのが306年末。その後すぐに拓跋猗盧が立つ。 ●八王の乱終結と鮮卑拓跋氏の再結集という拓跋猗盧にとっての好条件。 ●拓跋猗盧と劉琨の同盟 ● 拓跋猗盧と鮮卑慕容部・慕容皝の同盟…

八王の乱の勝者司馬越に肩入れした鮮卑拓跋氏。~北魏の歴史~

●八王の乱は鮮卑拓跋氏の地位を確立した契機。 ●八王の乱の勝者司馬越側についた鮮卑拓跋氏 ・劉淵に対抗するために司馬騰の要請を受けて鮮卑拓跋氏は動く。 ●鮮卑拓跋氏は拓跋猗盧が再統一する。 ●八王の乱は鮮卑拓跋氏の地位を確立した契機。 258年に鮮卑…