歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

司馬懿

魏末司馬氏政権のときの三たび揚州の乱①=251年王凌の乱=

正始政変以後、 251年の王凌の乱 255年の毌丘倹・文欽の乱 257年の諸葛誕の乱 と三つ続く。 これは、司馬懿が揚州のみ直接軍勢を率いたことのなかったためだ。 荊州(宛・襄陽方面)・雍州(長安方面)は司馬懿がそれぞれの諸軍事に 任官されていたので、司…

司馬師から政治スタンスが儒家・寛容の政治へ変わる。

司馬師の政治スタンスは、 儒家寄りの寛容スタンスであると私は言い切る。 ここで、司馬懿の法家儒家の混在から、 儒家にシフトする。 理由は下記の三点。 ・伊尹の古例から始まるのが象徴的。 ・孫権死後の対呉戦の敗北に関して、 自身を罰する。 ・皇帝曹…

袁紹と司馬懿の中継ぎ役が荀彧=荀彧は自殺していない=

●袁紹と司馬懿を繋ぐもの、荀彧 荀彧も名族である。名族の系譜では、袁紹と司馬懿の間をつなぐ者である。 名族の歴史では、荀彧は曹操に負けたことになる。 それで曖昧な存在になっているのが、荀彧である。 本当は、 袁紹→(荀彧)→司馬懿だ。 下記に、陳寅…

司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹 ②

司馬懿の宣帝という諡号は非常に政治的メッセージが強い。 司馬懿は前漢宣帝になぞらえられた。 その宣帝は、光武帝から 中宗の廟号を追贈されている。 光武帝は前漢宣帝をベンチマークしている。 この追贈は大変異例なことだ。 光武帝自身は、王莽によって…

司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹 ①

司馬懿は前漢宣帝になぞらえられた。 司馬懿の諡号は宣帝。 司馬懿死没の時点で、宣帝とは前漢の宣帝のみである。 前漢の宣帝といえば、 儒家の学問を修めながら、法家主義も用いて政治を行った。 以下のエピソードが有名である。 儒家を勧めてきた息子で太…

名族の時代を司馬懿が開く

249年司馬懿は高平陵の変(正始政変)から、 西晋が滅びる永嘉の乱までは名族(貴族。中国では士族という)の時代である。この時代は儒家を基礎に置いた復古思想が主流となる。 結論として、司馬懿は、 皇帝権を振るうのではなく、 名族の支持を得ることで…

改正九品官人法~司馬懿の狙いは名族の支持~

司馬懿は249年の高平陵の変(正始政変)の結果、 魏の実権を一人で握った。 司馬懿が実権を奪取後行ったことで、 注目に値するのは、 九品官人法の改正である。 この目的は以下3点である。 ①政権を握る司馬懿が、人事権を掌握した。 ②浮華の士(しかし実は最…

魏の法家政治は功臣司馬懿すら追い詰める。

厳しく冷酷な実力主義を乗り切ってきた名族出身の司馬懿。 それを、深く考えずに権力欲を表に出した曹爽一派が 司馬懿を実は追い詰め、曹爽一派を滅ぼす。 実力主義、皇帝専制、出身一族しか頼れない、 この三つが司馬懿を追い詰めた。 曹爽の登場で、実力主…

司馬懿はどうすればよかったか2(正始政変前夜)~歴史から見る司馬懿の立場~

実は歴史的な選択肢を取った司馬懿。 皇帝という概念が産まれてから初めて、 功臣が武力クーデターで権臣となった事例となった。 これが司馬懿であり、正始政変である。 ●際どい立場の司馬懿 ●窮地に陥った司馬懿の三つの視点 ①先祖:司馬懿は戦国趙の将軍司…

司馬懿はどうすればよかったか1~文化・思想~

司馬懿は儒家思想で育ち、 曹魏の法家主義の確立に貢献した。 そしてその厳しい実力主義の中で、勝ち残った。 儒家と法家の両方を修養し、 文武に力を発揮したのは、 この時代、 司馬懿の他には曹操や諸葛亮ぐらいしかいない。 頭一つ出たことでやむにやまれ…

司馬懿は実は曹真と姻戚であった。

曹真の妹= 夏侯尚の正妻。(夏侯尚はこの曹真の妹ではなく、妾を寵愛したため、曹丕にこの妾を殺された。) その娘夏侯徽=司馬師のはじめの妻 曹真の姪の夫=司馬師。 夏侯徽の兄夏侯玄=司馬師の義理の兄。 夏侯玄・夏侯徽の叔父=曹真 夏侯徽の義理の叔…

司馬懿は揚州方面のみ戦歴がない。だから司馬師以降揚州で乱が起きる。

上記は司馬懿が将軍として戦ったエリアを丸で囲ったものだ。 司馬懿は対呉戦線の揚州方面のみ戦歴がない。 だから、司馬師以降揚州のみ反乱が起きる。他は掌握できていたのだ。 揚州は、曹休→満寵→王淩→諸葛誕→毌丘倹→諸葛誕が都督揚州諸軍事である。 王淩以…

曹爽・司馬懿の対立のきっかけは、興勢の役(征蜀)

曹爽・司馬懿の対立のきっかけは、興勢の役(244年)からである。 それまで二人は共生できていた。 曹叡崩御から、対立のきっかけとなる、興勢の役までの流れを記す。 司馬懿は対呉戦線の整備に乗り出す。 曹爽は対蜀戦線を司馬懿から貰い受けたのだろうか。…

曹爽・司馬懿が任命された「侍中・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事」とは

司馬懿は曹叡の遺詔により曹芳の後見をすることになった。 大将軍の曹爽と、 大尉の司馬懿は、 侍中・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事が加冠される。 ※仮節鉞・・・ 仮節鉞は、仮節と仮黄鉞の意味。 仮節は、軍律違反者に対する軍法執行権。 仮黄鉞は、軍…

法家政治の反動~正始の音2~

曹芳の即位後、魏は弛緩する。ゆるむ。 厳格な人生を歩んできた司馬懿は世から煙たがれる。 皇帝権という権力の空白 厳しい法家主義政治の窮屈さ 玄学清談の気風を産む 、「正始の音」という時代に差し掛かる。 曹爽と司馬懿の二人で皇帝を輔弼するという非…

当代随一のキャリアを極めた司馬懿、世から煙たがれる~正始の音~

人臣としての当代一流のキャリアを極めた司馬懿。 当時の名士としては、一流の業績と経歴を持つ。 録尚書事 事実上の宰相 軍功 事実上の大将軍 蜀と呉を防ぎ、遼東を征伐する。 遺詔通り、曹叡を盛り立てた。 曹叡崩御のとき、司馬懿は60歳。 三国志の英雄は…

司馬懿の戦歴は、曹叡崩御時相対的に他を圧倒。

曹叡即位後、荊州戦線指揮官として、 南陽郡宛に出鎮してからの戦歴を下記に記す。 11度の戦歴がある。要所要所、都度重要な事件を挿入する。 ①226年 対呉 襄陽攻防戦 ②227年ー228年 孟達征討戦 ③228年 呉 石亭の戦いにおける荊州戦 ④230年 曹真の対蜀征伐 …

司馬懿が「倭」という一文字の国を服属させた。公孫淵討伐成功の副産物。

五丈原の戦いの後、司馬懿は大功を挙げる。 公孫淵討伐により、「倭」という、「中華圏内」の国を 服属させた。倭に親魏倭王の称号を贈る。 我々は、邪馬台国の由来や場所などでこの歴史に注目する。 卑弥呼の存在だったり、日本の由来をたどりたくなる。 し…

諸葛亮の評価に司馬懿の評価が比例する。

結局のところ、司馬懿の視点から見ると、 表題の通りになる。 諸葛亮(諸葛孔明)の評価が上がれば上がるほど、 それを撃退した、司馬懿の評価が上がることになる。 現実的には、手堅い諸葛亮の打ち手に対し、 手堅い現実的な対応を司馬懿がしたという結果に…

司馬懿の専守防衛は魏明帝曹叡の勅命~諸葛孔明第五次北伐~

魏にとっては、 二方面から攻撃を受けることになる。 呉が合肥と襄陽を攻撃、蜀が五丈原から長安を伺う形。 東西の端に攻撃を受ける形となる。 軍勢を三方面に分けなくてはならない。 これに対して、魏明帝曹叡は下記を親裁した。 魏明帝曹叡が全て決めたこ…

司馬懿の、諸葛孔明第四次北伐撃退を功績と見るか。

地は喪わず、人を喪う。 というのが、第四次北伐に対する司馬懿の評価と私は見る。 功績は功績だが、誇れる功績ではない。 魏という国家の視点から見ると、 蜀戦線は押され気味である。 一旦は隴(天水郡方面から西。長安から見て西に隴関を越えた先。祁山の…

司馬懿の「専守防衛」~ダイナミックな戦略の諸葛孔明「後期」北伐~

231年2月から諸葛孔明の第四次北伐が開始される。 ーーーーーーーーーーーーーーー 漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。 ①祁山経由 ②故道・大散関・陳倉経由 ③褒斜道・陳倉経由 ④褒斜道・五丈原経由 ⑤太白山(海抜3767メートル)をかすめ…

司馬懿、49歳にして初めての武勲~諸葛孔明第一次北伐~

ここからが司馬懿の本領発揮だ。 曹丕の寵臣として、人臣くらいを極めた司馬懿。 曹丕の崩御で終わるはずだった司馬懿のキャリア。 これが、逆に司馬懿の栄達をもたらす。 まず南陽郡宛へ出鎮させられる。 明帝に煙たがられたわけだ。 司馬懿は年齢も47歳で…

司馬懿、魏明帝曹叡から遠ざけられる。

魏文帝曹丕から、 多大な信任を得た司馬懿。 しかし不思議なのは、 曹丕存命中には司馬懿自身は わかりやすい実績を挙げていない。 西晋で奏でられる歌の歌詞に出てくる、 司馬懿の事績は孟達叛乱の鎮圧から。 それは魏文帝ではなく、 次代の魏明帝の時代だ…

魏文帝曹丕から前漢の名臣蕭何になぞらえられた司馬懿

曹丕の言葉: 「私が東方に向かうときには、 撫軍(司馬懿のこと)は 西方のことを統括せよ。 私が西方に向かうときには、 撫軍は東方のことを統括せよ」 魏文帝曹丕の信任を得ていた、 司馬懿は、漢魏革命により、 陳羣とともに 魏王朝のトップとなる。 225…

魏の礎を創った魏文帝曹丕・陳羣、そして司馬懿

三人の共通点は何か。 私は曹丕・陳羣・司馬懿の三人ともが 非常に厳格な家に育ったことを挙げたい。 このため、三人ともが、 他人に非常に厳しいことを主張したい。 これが魏王朝の政治が、苛烈であったと評価される。 魏末晉初によく出てくる表現だ。 寛恕…

司馬懿を引き立てたのは魏文帝曹丕だ。曹操ではない。

司馬懿の経歴を事実からたどり、人物像を追いたい。 ●179年に生まれる。司馬防の次男。本貫(本籍地)は河内郡温県。(洛陽から北に黄河を渡った先にある。) 「八達」の一人。字は仲達。 ●201年 宮仕えを始める。 荀彧の推薦。 荀彧が推薦した人物はほかに…

司馬懿・司馬師・司馬昭に大義名分はないという考え方

司馬懿父子(司馬懿とその子司馬師・司馬昭)の 悪名高さ。 なぜそうなったか、 大義名分から考えたい。 ●なぜ悪名高く描かれるのか。 結論としては、西晋より後の王朝が、 漢(前漢・後漢)を基礎にした歴史観・大義名分を持っているためである。 3つの軸で…

司馬懿・司馬師・司馬昭の事績から紐解く「悪行」

司馬懿・司馬師・司馬昭は何故 評判が悪いのか。 事実から紐解く。 下記3点は批判される点はある。 つまりは権勢家としてうまく行き過ぎたということだ。 ●司馬懿 曹爽一派の打倒。 このとき郭太后を利用。(郭太后は魏明帝の皇后) 身の危険があったとは言…