歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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戦国時代 日本

明智光秀の裏切り方は、足利尊氏の裏切り方に似ている。

●明智光秀、本能寺の変までの経緯。 ●足利尊氏、六波羅探題陥落までの経緯。 ●明智光秀と足利尊氏、それぞれの経緯の比較。 ●明智光秀、足利尊氏はそれぞれの政権におけるNo.2であった。 ●明智光秀は足利尊氏をベンチマークした。 ●明智光秀と足利尊氏のたっ…

なぜ織田信長は面白いか。

それは事実だからだ。 太田牛一が守った事実だからだ。 本当の事実というのは週刊誌のゴシップに近い部分も含めて人間臭く本当に面白いものだ。 太田牛一は、豊臣家から信長公記を隠して、著述、著書を隠した。 それは、時の権力者にとって、好ましい内容で…

本能寺の変の原因は、安土城の「天主」である。

明智憲三郎氏の説も理解ができる。 本能寺の変における黒幕は細川藤孝で、明智をけしかけた。明智は、明智を含めた美濃土岐一族の将来を考えて、本能寺に織田信長を弑逆する。元々これは、織田信長が明智光秀を使って徳川家康を誅殺しようとしたものを逆手…

細川忠興はキリシタンである。

黒田如水、長政は間違いなくキリシタン、 細川忠興もキリシタンである。 しかし、関ヶ原の戦いで、ガラシャを忠興が見切ったことで 両家は仲が悪くなった。 石田三成を襲った七将は、キリシタンがかかわっている可能性が高い。 豊臣政権は、キリシタンを禁止…

陣形の元祖は村上義清

武田晴信(武田信玄 1559年に出家)の村上義清掃討戦, それに対する村上義清の決死の突撃戦, 武田晴信を負傷させる。 陣形というより隊形だが、 前衛に弓兵と鉄砲兵を配置。 弓と鉄砲で敵勢に射かける。 そして、弓矢や鉄砲玉が尽きたら、 それら武器を捨て…

魚鱗の陣は「集まれ!」 鶴翼の陣は「広がれ!」

「魚鱗」は集まれ! 「鶴翼」は広がれ! 戦国時代までは、 陣形と言うのは存在しなかった。 部隊部隊各々ある意味勝手に戦っていた。 持ち場はあったものの、各々の判断で戦う、 それが戦いであった。 そう、考えてみれば当然だ。 元々、疑問であった。 魚鱗…

伊勢盛時(北条早雲)、関東に根を張る。

今川氏の家督争いを伊勢盛時は調停したが、 小鹿範満は龍王丸が元服近くになっても家督を譲る意向を示さない。 伊勢盛時は、1487年再度駿河に下向、龍王丸を補佐するともに、一緒に石脇城(焼津市)に入城。 兵を集める。 同年1487年11月に、伊勢盛時は挙兵…

北条早雲は関東における幕府方

北条早雲は幕府方として関東に下向し、 幕府のために様々な調略を行った。 北条早雲が関東に勢力を張ったのは、下克上ではない。 1493年に足利茶々丸を討ったことが下克上と言われているが、 そうではない。 最近の研究ではこれは幕府方として、 幕府の指示…

河越夜戦(かわごえよいくさ)~戦国関東の覇権を決めた戦い~

河越夜戦(河越城の戦いともいう)は1545年~1546年に起きた合戦。 関東へ急速な勢力伸長を着実に進める後北条氏(当主は北条氏康)。 一方、 古河公方(足利晴氏)・山内(やまのうち)上杉氏(上杉憲政)・ 扇谷上杉氏(上杉朝定)の三家が連合して、 後北…

井伊直虎・井伊直政

井伊氏というのは、 かなり古い氏族である。藤原北家に連なる。 大石泰史氏「井伊氏サバイバル500年」によると、 もともと遠江の「介」を長年続けていた。 「介」というのは「守」の次に位置し、次官扱いである。 例えば常陸の「守」は親王のため、人臣では…