歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋元帝司馬睿

王敦の乱は、王導が裏切ったから失敗した。

●第一次王敦の乱 王敦が仕掛ける。 ●王敦は大将軍兼丞相、王導も司空から司徒へ昇進。 ●王敦病気になる。第二次王敦の乱 明帝派が仕掛ける。 ●王敦が潰されても、王導はまた昇進する。 王敦は、 王敦が軍権、 王導が朝廷をそれぞれ牛耳ることで東晋は確立し…

王敦の言い分「東晋は私が創った。」

王導ではなく、王敦が東晋を建国した。

王敦の荊州攻略、冷徹な政治家としての処置。

瑯琊王氏の王敦は冷徹な政治家である。 相当に合理的な人物である。王導を超える存在。

東晋元帝司馬睿⑤江南がまとまったのは王敦と王導のおかげ

司馬睿は司馬越の指示で、江南は建業にやってきた。 ●八王の乱の勝者司馬越、懐帝に足を引っ張られる。 ●西晋が滅亡へと向かう中やりくりする司馬睿ら。 ●司馬睿の下、実働するのは王敦と王導 ●司馬睿が皇帝になれたのは、王敦と王導のおかげ。 まとまりがつ…

東晋元帝司馬睿④司馬越派として江南にやってきた。

東晋の成立は、 318年3月の司馬睿の皇帝即位である。 311年6月に匈奴漢が洛陽を陥落させ、 西晋皇帝懐帝を拉致してから、 約7年後である。 ●司馬睿に西晋皇帝を主張できる資格はない。 ●司馬睿よりも西晋皇帝を主張できるのは司馬保。 ●司馬保は司馬睿が皇帝…

東晋創業者元帝司馬睿②叔父司馬澹・司馬繇の兄弟喧嘩で割りを食う。

影の薄い東晋元帝司馬睿。 ①では、司馬睿は時の名家に生まれながらも、 父の早逝と祖父母の叔父への偏愛により、本来なら、 一族を率いる立場になるはずが、そうならなかったことを記した。 ●賈后派に付く司馬睿。 ●司馬越との縁 ●司馬睿は司馬越の指示で、…

東晋創業者元帝司馬睿①生い立ち 祖父母の叔父への偏愛が司馬睿の影を薄くする。

司馬睿は東晋の祖でありながら、影が薄い。 何を成したのか、どういう人物だったのか、わかりにくい。 似たような境遇の人物として、南宋の高宗がいるが、 まだ事績が伝わる。それは治世の長さだけが理由ではない。 司馬睿は、そもそも主導権を発揮できる立…

祖逖に始まる北府軍

●祖逖の名前 ●北伐義勇軍を形成する祖逖 ●祖逖の遺志が北府軍を創った 建康郊外に駐屯し、大きな軍権を握る北府軍。 常に東晋の政局に影響を与え、 最終的には北府軍出身の劉裕が東晋皇帝からの禅譲を実現させる。 政治的局面での存在感が強い、北府軍である…

東晋丞相王導の献言で司馬睿が南遷したという「嘘」=彼は保身に走る単なる政治家である。=

王導の献言で司馬睿が南遷したというのは嘘だ。 ●王導の虚実 ●司馬睿南遷は司馬越の指示 ●司馬越直属の参軍王導は監軍として司馬睿南遷に同行。 参軍とは: 監軍とは: ●王導の自己保身 ●●●●●司馬越の監軍 王導●●● www.rekishinoshinzui.com ●王導の虚実 後…

長江は文化圏を分ける。黄河は幽州を分離=石勒312年江南撤退、襄国本拠設置から辿る=

●長江は文化圏を分ける。 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その1 王浚への対抗 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その2 石勒の強みを最も活かせる土地 石勒の邁進にストップをかけた長江。 これは曹操も同じであった。 長江は移動の弊害という天嶮の意味だけ…

後の東晋元帝司馬睿よりも本来は皇位に近い存在、司馬保

●司馬保は、司馬越家の生き残り ●司馬保と司馬睿、対立。司馬睿の勝利 ●司馬保は、司馬越家の生き残り 司馬保は司馬越の四弟司馬模の子である。司馬馗家の一人であり、西晋最高権力者司馬越の血族である。司馬越は兄弟を大切にしたので、甥も同様だったであ…

司馬睿は司馬越の副将格 瑯琊王氏の王導は司馬越の目付〜西晋東晋過渡期の311年ー318年〜

●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 ●司馬越の後背地下邳を預かる司馬睿 ●司馬越の意向により建業の確保という使命を帯びる司馬睿 ――――――――――――――― ●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 司馬睿は、愍帝が匈奴漢に降伏して捕虜となった翌317年晋王となっている。…

西晋 滅亡の年はいつなのか。

西晋には、 事実上の滅亡やら、完全な滅亡やらいろいろな表現がある。 後に司馬睿が東晋を建国するのでさらにややこしい。 西晋の終止符がわかりにくい。 司馬睿は、建国したつもりはなく、晋を受け継いでいるので、 新しい国を作ったことにはならない。 当…

八王の乱が終焉した307年初頭 西晋各地の情勢について~四方を固める司馬越四兄弟、司馬睿の東晋独立の契機、懐帝の謀略~

307年初頭における、 司馬越兄弟を中心とした 西晋懐帝勢力と、その敵対勢力について。