東晋
356年8月に姚襄を打ち破り、 洛陽城内へ桓温は入城。 桓温の第二次北伐は洛陽奪取という快挙を成し遂げた。 ●何故桓温は撤退したのか ・東晋内の政治抗争 ・兵が足りない。 ●前燕は既に鄴まで勢力を伸ばしていた。 ●前秦戦線はどうか。 ●姚襄との激戦の疲労 …
桓温の第二次北伐の実行。 ●桓温対建康政府の対立。 ●東晋政府から反対された桓温の第二次北伐 ●前燕鮮卑慕容部はライバルの青州段部に付きっ切り ●前秦は皇帝苻生の暴政により混乱中。 ●姚襄と桓温の洛陽伊水決戦。 桓温は、354年の前半に第一次北伐を実行…
●河北・後趙の崩壊→東と西に分裂。 ●西の関中は氐族苻氏 ●東の河北は前燕鮮卑慕容部が獲る。 ・冉閔が後趙を滅ぼす。 ・鮮卑慕容部が冉閔を滅ぼす。 ●どこも取れなかった羌族姚氏 桓温の356年第二次北伐に関して、 そこに至る前の情勢について説明したい。 ●…
354年の桓温第一次北伐から356年桓温第二次北伐までの 中華情勢に言及して、桓温の軍事上の狙いを考えたい。 ●前燕の鮮卑慕容部が勢力を大きく伸張させる。 ●桓温ができるのは寡兵による電撃戦、その効果的な目標はどこか。 ●洛陽を狙う、姚襄と桓温 ● 裏切…
東晋政府の全面協力を得られない桓温は電撃戦で洛陽を狙う。 結論はこれだ。 しかし、そこに至るまで、桓温は東晋内で、 準備を始める。それは調整力・政治力が問われるものであった。 桓温は第二次北伐へ備え、動く。 東晋政府とのやりくり、調整力と軍事戦…
●長安攻略失敗で失意の桓温、実は41年振りの快挙であった。 ●司馬昱首班の東晋朝廷も桓温を賞賛せざるを得ない。 ●衆望を背景に、桓温は動員兵力の増加を狙う。 ・課題1 僑籍 ・課題2 貴族の大土地所有 ●民衆と桓温 対 貴族名族 という構図ができる。 ●長安…
●北伐とは、非常に割りの合わない事業。 ●桓温得意の電撃戦。 ●司馬勲という異形の存在が秦嶺山脈越え。 ・司馬勲とは ●桓温自身は武関経由で関中へ侵入。 ●英雄桓温の誕生は、桓温の真摯さか、狡猾さか。 桓温の第一次北伐 桓温の北伐は上奏の結果、政権首…
桓温の第一次北伐前夜。 ようやく北伐の命が桓温に下される。 機を逸したのは東晋の保守的な事情であり、 桓温が長安を攻めたのも東晋の内部事情が原因である。 ●桓温に北伐のお鉢が回ってきた背景: ●桓温、北伐の狙いは長安。 ・桓温権限のみで速やかに狙…
殷浩が姚襄に裏切られ、 北伐は失敗。 殷浩は姚襄を暗殺しようとしていたのだから当然であった。 桓温の、殷浩に対する左遷要請に、建康政府(つまり司馬昱)は折れ、 殷浩を放逐する。 こうして桓温にお鉢が回ってくる。 ここで352年の殷浩北伐失敗から370…
●殷浩北伐の背景: ●河北における冉閔台頭の背景: ●積極策を取れない司馬昱は、清談の士・殷浩に頼る。 ●352年殷浩北伐の開始: ・冉閔 ・鮮卑慕容部: ・氐族苻氏: ・羌族姚氏: ●殷浩北伐の背景: 350年の褚裒(チョホウ。外戚)の北伐の失敗。 それは本…
344年の庾冰の皇帝後継推挙。司馬昱。 371年の桓温の皇帝推戴。司馬昱。 ●作られたヒーロー、桓温 ●桓温を何充が重責に充てる。 ●司馬昱は庾氏勢力が支持をした。 これらをつなげる要素、 それは、 桓温は庾氏勢力の後継者であること、 である。 ●作られたヒ…
●五馬渡江は誰か。 ●「五馬」は東晋建国まもなく全員死ぬ。 ●五馬は東晋の実権者には邪魔だったのだ。 ●司馬雄 ●蘇峻の乱、その本当の意味は西晋司馬氏の無力化である。 「五馬渡江」。 五人の西晋司馬氏の宗族が江南に渡り、東晋として西晋を復興させた。 …
●石虎の死去が中華のパワーバランスを崩壊させる。 ●冉閔の暴走 ●東晋褚裒(チョホウ)の北伐は中途半端 ●石虎の死去が中華のパワーバランスを崩壊させる。 349年後趙皇帝石虎死去。 事実上の簒奪ではあっても、 石勒死後16年後趙の領土を保った巨星がついに…
桓温は 347年までに成漢の制圧を完了させた。 そのまま桓温北伐かと言えば、そうことは単純ではない。 ●成漢征伐と北伐の位置付けの違い。 ●北伐は桓温の権限では独断できない。 ●司馬昱(シバイク)の台頭 ●清談の士を重んじる西晋・東晋は殷浩を登用。 最…
東晋における北伐派と反北伐派について。 ●東晋において何故北伐派、反北伐派という視点がないのか。 ●中華王朝たる東晋にとって北伐は当然 ●事実上の皇帝代理司馬昱 ●司馬昱と桓温が活躍する時期はほぼ同じ。 ●桓温と司馬昱は北伐派。 東晋には実は北伐派と…
建国以来30年近く停滞している東晋。 この鬱屈とした東晋に 光明をもたらしたのが桓温である。 ●桓温が西府軍を預けられた理由 ●桓温、345年荊州に出鎮。西府軍の掌握。 ●345年の東晋の対外情勢 ●成漢 実は成国と漢国である。 ●桓温の成漢討伐 〈桓温の電撃…
●とにかく幼帝を嫌がった庾冰・庾翼: 〈康帝の危篤〉 ●庾冰・庾翼ら庾氏の悲願、北伐。 〈血統を変えてでも成年皇帝にこだわった庾冰・庾翼〉 ●作られたヒーロー、桓温が更に躍進する。 ●桓温を何充が重責に充てる。 ●何充、潁川庾氏と瑯琊王氏の両氏と姻戚…
●庾亮の悲願東晋北伐を343年に実現する庾翼とは。 ●343年北伐の実行。 ・遼東の慕容皝、涼州の張駿と連携。 ●康帝の崩御、2歳の幼帝穆帝即位。 ●司馬昱を後継にしようとする無茶。 ●巴の獲得と、庾冰・庾翼の死。 東晋が国家単位で北伐を初めて実施したのが…
岳飛を超える桓温。 これが、 桓温の実態、その結論である。 南宋の英雄、岳飛を超える実績を持つ桓温、 虚構に満ちた西晋・東晋の歴史をなぞることで、 この結論を明確にしたい。 ●嘘だらけの西晋・東晋史 〈恵帝毒殺犯の嘘〉 〈司馬越、石勒討伐の嘘〉 〈…
刊溝。 これは運河である。 ●刊溝はどこにあるか。 ●刊溝はいつ作られたか。 ●刊溝を作った呉王夫差の目的 ●越王勾践も邗溝を活用する。 ●呉楚七国の乱で前漢の呉王劉濞が邗溝を活用。 ●後漢末から三国時代の刊溝 孫権も使う。 ●西晋時代の刊溝は平和利用。 …
●庾亮は北伐を実行して名誉挽回を図りたい。 ●北伐をしたい庾亮、石勒死後の絶好のチャンスを逃す。 ●庾亮いよいよ北伐かという時に石虎に叩かれる。 北伐を敢行した祖逖が失意のうちに死去。 その後東晋は王敦の乱、蘇峻の乱と内乱が続く。 いずれも、軍功…
桓温はその死にあたり、 実の子ではなく、 年齢の近い弟でもなく、 末弟の桓沖に後を継がせた。 ●一歳の時から桓温が面倒を見てきた弟・桓沖 ●なぜ桓沖が譙国桓氏の後継者か。 ●譙国桓氏のソフトランディングを桓温に任された桓沖 ●桓沖は桓温死後の最高権力…
●最高権力者が傀儡を目的にして、51歳の皇帝を擁立することはない。 ●司馬昱を皇帝に擁立した桓温の目的は北伐を遂行だ。 ・司馬氏宗族のトップ、司馬晞の排除。 ・桓温への反発から反北伐派へ転向した、庾希 ●皇帝司馬昱の早すぎる死、落胆した桓温も後を追…
桓温を引き立てたのは、 庾亮である。 ●桓温の出世 庾亮の思惑 ●庾亮が決めた桓温への公主降嫁。 ●絶望的な状況だった東晋と庾亮 ●蘇峻の乱以後の沈静化した時代から、桓温の時代へ。 ●桓温の功績を時系列に語る。 ・桓温、荊州は西府軍の掌握。 ・桓温、蜀…
345年に桓温が西府軍を掌握してから、 桓温が死ぬ373年までは、桓温の時代である。 ●東晋の救世主、桓温。 ●桓温の出自 ●桓温が名を挙げた、父の仇討ち ●蘇峻の乱で死んだ父桓彝 世に出るきっかけは、父の仇討ちである。 ●東晋の救世主、桓温。 桓温は東晋の…
桓温の登場は345年である。それまでに、 各勢力の実力者が死んだことで、桓温にお鉢が回ってきた。 ●次々と各領袖が世を去って行く。 ●334年、西府軍の祖陶侃の死。 ●庾亮の北伐計画、未然に石虎に潰される。 ●王導、郗鑒は339年、庾亮は340年に死去。 ●桓温…
庾亮は、329年に東晋を沈静化させた。 各勢力のバランスオブパワーが確立したのである。 ●東晋大乱を生き残った5つの勢力 ●北来貴族の庾亮は、皇帝や瑯琊王氏に好かれる。 ●法家思想に長じる庾亮は明帝からの高い信用を得る。 ●幼帝の下、庾亮自身が法家政治…
●軍閥の台頭は、王朝を滅ぼすもの。 ・後漢の例 ・西晋の例 ・唐も清も中華民国も同じ。 ●軍閥を抑制したい外戚庾亮 ●軍閥側蘇峻・祖約らの視点 ●執政庾亮と軍閥蘇峻の対立。 ・蘇峻の怒り。 ・庾亮の正論。 ●蘇峻の乱勃発。 327年から329年まで続く、 蘇峻…
313年豫州まで来ていた。 石勒の撤退により、 司馬睿政権は難を逃れた。 これにより事実上の東晋が成立する。 ●東晋、5つの勢力 ●東晋建国の元勲、王敦の乱 ●外戚庾亮の専権 ●蘇峻の乱。叩き上げの蘇峻に配慮しない庾亮が悪い。 ●329年に東晋内部がようやく…
●第一次王敦の乱 王敦が仕掛ける。 ●王敦は大将軍兼丞相、王導も司空から司徒へ昇進。 ●王敦病気になる。第二次王敦の乱 明帝派が仕掛ける。 ●王敦が潰されても、王導はまた昇進する。 王敦は、 王敦が軍権、 王導が朝廷をそれぞれ牛耳ることで東晋は確立し…