歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

漢(季漢・蜀漢)

成漢建国前史① =蜀漢で培われた独立心=

●劉備が作った蜀漢は元荊州政権。 ●荊州政権の劉備勢力(後の蜀漢)なのに、荊州本国を奪られた。 ●ついに「呉越」が「楚」を領有した。 ●亡命政権、劉備・劉禅の蜀漢 ●蜀の二重構造。 成漢の前に、巴蜀にあった蜀漢の経緯から、 成漢成立時の巴蜀の事情につ…

関羽の実態は、義兄劉備を政治的に追い込んだ張本人

関羽については、いつかしっかりと事跡を辿りたいが、長編になるので、ここでは結論から言いたい。 ●関羽の襄陽攻撃は独断 ●関羽は事実上の劉備から独立していた。 ●劉備の政治生命にとって致命的な荊州失陥 ●荊州失陥のスケープゴートになった劉封と孟達 関…

虚構の「関羽」の国家利用=明のプロパガンダ三国志演義=

実態に迫ることで、なぜ関羽が国家利用されたのかを記述したい。 ●関羽 国家と民の心を掴むその理由 ●虚構の関羽 ●実態の関羽 四点から考察 ①桃園の誓い ②義兄弟、そのアンダーグラウンドな世界 ③尊皇の概念で民衆が動く時代ではない。 ④荊州失陥、悲劇では…

蜀漢皇帝劉禅在位年数は、当時皇帝在位年数第二位であった。

下記が歴代中華皇帝の中で在位年数が長い者から順に挙げたものである。 --------------------- ①清康熙帝61年 ②清乾隆帝60年 ③前漢武帝54年 ④遼聖宗49年 ⑤明万暦帝48年 ⑥南朝梁武帝47年 ⑦明嘉靖帝45年 ⑧唐玄宗44年 ⑨北宋仁宗41年 ⑩蜀漢後主40年 ⑩南宋理宗40…

劉禅は親政している。蜀漢の政治機構は漢のあるべき政治機構の姿に忠実。

■ 蜀漢の政治機構は正に漢を継ぐものである。 三公は、司徒・司空・太尉である。後漢と同じである。 (前漢の三公は、丞相・御史大夫・太尉) 尚書省は設けられている。 本来の政治機構通り、 尚書省が皇帝直轄の機関なので、 ここが最高権力となる。 霍光以…

暗愚という虚構の劉禅~書物から辿る~

暗愚という虚構の劉禅 虚構の劉禅は、 どれだけ頑張って努力をしても報われなかったという、 冷厳たる事実から、目を背けさせてくれる。 「劉禅が暗愚だったから駄目だったんだ。」 それで納得をしたい人たちの思いが作ったものである。 劉禅肯定論を以下5つ…

劉禅は蜀漢正統論の犠牲者である。 =漢晋春秋「曹操=桓温」論が蜀漢正統論を生み出した=

劉禅が暗愚とされた逸話は、 「漢晋春秋」 東晋の習鑿歯著作が原点である。 司馬昭と劉禅の会話である。 劉禅のエピソードで、最も有名で、最も蜀漢ファンを落胆させる話である。 下記に引用する。 --------------------- (出典:正史三国志裴松之注 引用漢…

鄧艾の、橋頭から江油に至る山越えルート~蜀漢討伐~

※赤線が鄧艾が通った道。広武関の上部が道なき道を行って、鄧艾がフェルトに身を包んで転げ落ちたところ。 鍾会は白水で諸葛緒から軍勢を奪い、南方にある剣閣に向かっていた。 徳陽亭あたりは標高1000メートル。 北の山地は、標高2400メートルぐらい。 標高…

姜維が駐屯した沓中とは何処にあるのか。

~姜維駐屯沓中はかなり広い範囲を指す~ 「中国歴史地図集」にて、沓中は 白龍江沿いの中流辺りに記載されている。 沓中は調べてみると、 現在の甘粛省甘南チベット族自治州迭部県(テウォケン)に当たるという。 何かしっくりこない。 峡谷の合間にわざわ…

姜維北伐の戦略は裏を取ること〜魏領攻撃の裏ルート〜

姜維北伐は、諸葛亮の北伐のイメージが強いためか、 同じようなルートを使った印象がある。 実は、同じルートはほとんど使っていない。 姜維の北伐は6回行われた。 一方、諸葛亮の北伐は5回行われた。 諸葛亮北伐は、 いずれも、秦嶺山脈を通過するルートで…

費禕の主張は、決断しないことを決めること~現実的な政治家としてのスタンス~

費禕は非常に器用な人物である。 不真面目で、サボっているように見える、そんな人物だ。 そういう人物は、生真面目な人間からはひどく嫌われる。 二つの側面から、費禕を考えたいと思う。 ①尚書令で漢皇帝の高い信頼を得ていた董允に関する エピソードであ…

諸葛瞻こそ蜀漢滅亡のキーパーソン

諸葛瞻。 一般的な認知は、 魏、というより司馬昭の命による、 鍾会らの蜀漢討伐の際、 綿竹にて鄧艾に敗死したという ものであろう。 諸葛亮の息子として、 蜀漢の滅亡に殉ずるふさわしい死。 このイメージだ。 しかし、そう事は単純ではない。 基本的に諸…

諸葛瞻が黄皓を引っ張り出した。

●諸葛瞻(しょかつせん。諸葛亮の息子。227-263年)の登場が蜀漢を破滅に向かわせた。 魏が蜀漢討伐を開始した時、 諸葛瞻は、平尚書事・衛将軍であった。 衛将軍は、費禕が存命時のときの姜維の官職である。 費禕は大将軍・録尚書事で、姜維は衛将軍・録尚…

263年魏の蜀漢討伐 第七段階 〜漢皇帝、鄧艾に降伏〜

姜維は巴西郡閬中から、 広漢郡郪へ移動。 鍾会は涪城まで進軍。 胡烈とともに、姜維を包囲しようと軍を展開。 鄧艾は雒城に至る。成都を窺う。 蜀漢軍の主力は、剣閣および姜維とともにあった。 徹底抗戦や南方への撤退の声もあるなか、 漢皇帝は、譙周の提…

263年魏の蜀漢討伐 第六段階 〜諸葛瞻敗死〜

鄧艾は、綿竹の諸葛瞻(しょかつせん)を撃破。諸葛瞻敗死。 姜維は、諸葛瞻敗死を知り、鉄壁の剣閣を捨て、巴西へ移動。 涪城は鄧艾が制圧してしまっていて通れない。 迂回して、 成都へ向かおうとする。

263年魏の蜀漢討伐 第五段階 〜鄧艾、姜維の裏を突く〜

鄧艾、江油を突破、蜀へ侵入する。 涪城にいた、衛将軍・平尚書事の諸葛瞻は、綿竹に撤退。 涪城は今の綿陽市である。 蜀エリアである。 蒋琬が病に伏して漢中から撤退したのがこの涪城である。 南東の巴西に行くにも便利な場所で、 交通の要地である。また…

263年魏の蜀漢討伐 第四段階〜白水にいた諸葛緒を鍾会は更迭。軍勢を奪う。総勢13万人の鍾会・胡烈軍は、姜維の籠る剣閣に迫る〜

鍾会・胡烈の軍勢13万人は剣閣の守りの前に 足止めを喰う。 先方が剣閣に到着しても、最後尾はまだ白水にいるほど、 大軍の進軍も滞っていた。 それを知った、3万の鄧艾軍は、 陰平から江油へ向けて、間道を進み、途中道なき道を進みながら進軍する。 鄧艾は…

263年魏の蜀漢討伐 第三段階 〜姜維、諸葛緒を撒くも、既に関城は鍾会・胡烈に落とされ、剣閣に入る〜

姜維は白水に入った。 白水から東北に向かえば、 関城を経て、陽平関(陽安関)に至る。漢中に入れる。 しかし、この時点で既に関城は魏軍に手に陥ちていた。 城将のひとり蒋舒(しょうじょ)が人事の恨みで、 魏に寝返ったためだ。 魏としては、蜀から漢中…

263年魏の蜀漢討伐 第二段階〜鍾会漢中制圧後〜

姜維は沓中から陰平に撤退する。 鍾会の漢中攻撃をはじめ、 早々にこの状況を把握。 鄧艾軍にこだわらず撤退を急ぐ。 漢中を取られたら元も子もないないからだ。 沓中は、岷山山脈の中にある。 岷山の北側、迭山の南側の 白龍江沿いにある。 岷山山脈は、九…

263年魏の蜀漢討伐 第一段階

沓中への駐屯を確認した魏は、 蜀漢討伐を計画、実行に移す。 鍾会が長安に到着したのは、263年の9月のことである。 鄧艾は、都督隴右諸軍事なので、現地駐在、 諸葛緒は、雍州刺史なので、諸葛緒も現地駐在である。 鄧艾すら反対したこの蜀漢討伐。 賛成者…

劉禅は理想の儒家皇帝である。

漢皇帝劉禅。 中国史上最も有名な暗愚な皇帝は劉禅だ。 しかし、劉禅は要所要所で政治対立のバランサーとして 出現する。それも意外とぶれない。 姜維と費禕の対立から、漢皇帝劉禅のスタイルをたどる。 費禕を暗殺したからといってすぐには最高権力者にはな…

漢皇帝劉禅は魏皇帝のアンチテーゼ

※敢えて漢皇帝・蜀漢皇帝という呼称を使って、 事績を考える。 ●蜀漢皇帝・・・ 223年の父帝の崩御を受けて即位。 当時在位40年を迎えていた。 蜀漢建国の経緯から、 諸葛亮が定めた国策北伐を前提に統治。 あの諸葛亮ですら成し得なかった北伐。 益州人たち…

魏の蜀漢討伐に関する、魏漢陣営の思惑

司馬昭 王莽への道 唯一の救いの手段 皇帝弑逆ゆえ禅譲しか道がなくなった。 中途半端に終われば、司馬昭および司馬一族は、 梁冀・董卓のように滅びるのである。 禅譲・禅代を進めるには、際立った功績が必要。 魏の正統性を真っ向否定する蜀漢の討伐が本来…

蜀漢がたった3ヶ月で滅亡した原因は何か。

姜維と諸葛瞻以外、 まともに戦っていないことが大きい。 つまり各城主とも、徹底抗戦せずに、 降伏しているのである。 これは、何故だろうか。 例えば、劉備の入蜀の際には、 劉璋サイドの各城主が籠城して抗戦している。 にも関わらず、 何故降伏が多かっ…

姜維は何故費禕を暗殺したのか~北伐支持派と反対派〜姜維⑦

魏を討伐することで、蜀漢をまとめた。 政治家諸葛亮の本領発揮である。 このバランス感覚が諸葛丞相らしい。 荊州は捨てて、 魏に立ち向かう。 これを国策にすることでまとめた。 自身の出身地でもある荊州を捨てられたのは大きい。 かと言って、 諸葛亮は…

姜維は何故費禕を暗殺したのか=北伐前提で国をまとめた諸葛亮、北伐が至上命題になった経緯= 姜維⑥

そもそも、 蜀漢内において、北伐の是非が論争されたことが対立の原因である。 北伐がまず前提となったのはいつか。 やはりそれは諸葛亮による。 222年に建国された蜀漢。 自身は、漢と称する。 後漢献帝による曹丕への禅譲を認めず、 曹丕の弑逆によって、…

蜀漢の百官の頂点は録尚書事である。

蜀漢の歴史の中で、 録尚書事に任官されているのは、 四人しかいない。 諸葛亮、蒋琬、費禕、姜維の四人である。 それぞれの在任期間は下記となる。 ----------------------- 録尚書事 222-234 諸葛亮 234-246 蒋琬 243-253 費禕 247-263 姜維 -------------…

鄧艾の衝動

予想外だったのは鄧艾の動きだった。 鄧艾は沓中の姜維を攻撃し、撤退させた後、 陰平まで進軍していた。 そこで鍾会が剣閣で立ち往生していることを知る。 剣閣は諸葛亮が構築したとも言われる。 谷間にある鉄壁の要塞。鍾会ならずとも誰しもが陥落させるの…

姜維の北伐五連戦に理由あり。姜維⑤

姜維の北伐五年連続五連戦にはそれぞれ理由がある。 やたらに攻めたわけではない。 【姜維の北伐6回の軌跡】-------------------------------------------------------------- ①253年 南安攻撃 →呉の諸葛恪、合肥新城の戦い ②254年6月 狄道攻撃 →狄道に内通…

姜維は費禕を暗殺した。 姜維④

姜維は何故北辺に逃亡するまで諸葛瞻らに追い詰められたか。 そもそも、諸葛瞻と董厥はなぜそこまで北伐に反対をしたのだろうか。 この蜀漢という国は、 非常に人気が高い。 高いからこそ、我々のそうあってほしいという思いが、 見えなくする部分がたくさ…