歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

漢(季漢・蜀漢)

姜維は何故沓中に駐屯していたのか。 姜維③

蜀漢が滅びた原因は何か。 結論として、 直接の原因は、 大将軍姜維が沓中に駐屯したことだ。 ここは、岐山の北西、 天水の西、 蘭州の南西で、 当時の蜀漢領の最前線である。 成都から最も遠い場所に当たる。 現在の甘南チベット族自治州テウォ県にあたる。…

姜維が勝手に北伐を重ねて国力が疲弊したから蜀漢は滅亡したのか。 姜維②

諸葛亮の死後、 蒋琬は何度も北伐を検討していた。 病床に伏すまでは、漢中に駐屯していた。 費禕は、北伐に前向きではなかったエピソードが多い。 例えば、姜維が北伐の実施を建言した時も、 我々は諸葛丞相に及ばない。丞相ができなかったことを、 丞相に…

姜維が内政を顧みなかったから蜀漢は滅びたのか 姜維①

蜀漢の最高権力は、 丞相・益州刺史・録尚書事の兼任で確立。 蜀漢の最高権力者は、北伐を常に漢中から伺うので、 成都にあって後方を取り仕切るのは尚書令となる。 最高権力者+尚書令のコンビが誰になるのかが重要。 ・官職は空席でも良い。 ・録尚書事は2…

蜀漢を降伏させる=漢の放伐成功=天命が下る

この蜀漢は、 劉備と劉禅の主張では、漢を継ぐものであった。 この主張が輿論に十分に通じる証拠がある。 西晋末の劉淵が、304年に漢を建国した時に、 劉淵は当時蜀の後主と言われていた劉禅を継ぐと 主張して皇帝になったのだ。 そして劉淵は、 劉禅に対し…

姜維 漢に仕える経緯

253年 南安攻撃 254年6月 洮西を獲得。 255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。) 256年 段谷の戦い 257年 駱谷道から進撃 262年 候和の戦い の計6回である。 253年から257年まで5年連続で戦役…

姜維の北伐は6回。

253年 南安攻撃 254年6月 255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた王経を撃破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。) 256年 段谷の戦い 257年 駱谷道から進撃 262年 候和の戦い の計6回である。 姜維は生年202年-没年264年である。 司馬師は生…

劉備が前漢景帝の子孫であるという意味

前漢景帝には十四人の男子がいた。 劉備は、景帝の男子の一人である、 中山靖王劉勝の子孫と称している。 劉勝は、九男である。母は賈夫人。 景帝の崩御後、後を継いだのは、 十男の武帝劉徹である。母は王皇后。 漢を復興させた、後漢光武帝は、 七男長沙定…

漢の諸葛丞相が攻めてきた、その思想的意義

漢の諸葛丞相は、 魏賊を討伐するために北伐を敢行する。 劉備が漢皇帝位を継いだ経緯から、 これは至上命題である。 漢中から魏を攻撃するわけだが、 秦嶺山脈を超えた先には、 関中平野がある。 長安は前漢の都であった。 民衆にとっては つい数年前まで、…

「蜀」「蜀漢」ではない、「漢」である。

三国志において、 劉備が創業した国は、一般的に「蜀」と呼ばれる。 しかし、劉備たちは、自国のことを 「漢」と呼んでいた。 または、末っ子の漢ということで、「季漢」とも呼んでいる。 241年に蜀(蜀漢、漢)の楊戯が著した 「季漢輔臣賛」という本もある…