歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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瑯琊王氏

五馬渡江にまつわる謎~ピックアップされないのは何故~

●五馬渡江は誰か。 ●「五馬」は東晋建国まもなく全員死ぬ。 ●五馬は東晋の実権者には邪魔だったのだ。 ●司馬雄 ●蘇峻の乱、その本当の意味は西晋司馬氏の無力化である。 「五馬渡江」。 五人の西晋司馬氏の宗族が江南に渡り、東晋として西晋を復興させた。 …

王敦の乱は、王導が裏切ったから失敗した。

●第一次王敦の乱 王敦が仕掛ける。 ●王敦は大将軍兼丞相、王導も司空から司徒へ昇進。 ●王敦病気になる。第二次王敦の乱 明帝派が仕掛ける。 ●王敦が潰されても、王導はまた昇進する。 王敦は、 王敦が軍権、 王導が朝廷をそれぞれ牛耳ることで東晋は確立し…

瑯琊王氏の事実上の頭領は王敦である。

東晋の事実上の建国者は、 司馬睿でも、王導でもない。 王敦である。 この理由を説明したい。 ①王敦は実は司馬炎の婿 ②王敦は揚州刺史で直臣、王導は司馬睿の属官で陪臣 ③王敦は王導より年上: ④使える勢力は使うだけ使って捨てるのは王敦の策 ⑤王導が排斥さ…

王敦の言い分「東晋は私が創った。」

王導ではなく、王敦が東晋を建国した。

王敦の荊州攻略、冷徹な政治家としての処置。

瑯琊王氏の王敦は冷徹な政治家である。 相当に合理的な人物である。王導を超える存在。

王敦と王導が江南、荊州を掌握し、東晋は成立した。

318年3月に東晋は成立する。 ●江南は王導。 ●王導の巧みな政略。 ●江州・荊州は王導との関係の深い王敦が調略。 それは、必然ではなかった。 江南がまとまっていたから 司馬睿は皇帝になれたのである。 司馬睿は、ライバル司馬保を 押しのけての即位であった…

東晋元帝司馬睿⑤江南がまとまったのは王敦と王導のおかげ

司馬睿は司馬越の指示で、江南は建業にやってきた。 ●八王の乱の勝者司馬越、懐帝に足を引っ張られる。 ●西晋が滅亡へと向かう中やりくりする司馬睿ら。 ●司馬睿の下、実働するのは王敦と王導 ●司馬睿が皇帝になれたのは、王敦と王導のおかげ。 まとまりがつ…

東晋丞相王導の献言で司馬睿が南遷したという「嘘」=彼は保身に走る単なる政治家である。=

王導の献言で司馬睿が南遷したというのは嘘だ。 ●王導の虚実 ●司馬睿南遷は司馬越の指示 ●司馬越直属の参軍王導は監軍として司馬睿南遷に同行。 参軍とは: 監軍とは: ●王導の自己保身 ●●●●●司馬越の監軍 王導●●● www.rekishinoshinzui.com ●王導の虚実 後…

後の東晋元帝司馬睿よりも本来は皇位に近い存在、司馬保

●司馬保は、司馬越家の生き残り ●司馬保と司馬睿、対立。司馬睿の勝利 ●司馬保は、司馬越家の生き残り 司馬保は司馬越の四弟司馬模の子である。司馬馗家の一人であり、西晋最高権力者司馬越の血族である。司馬越は兄弟を大切にしたので、甥も同様だったであ…

司馬睿は司馬越の副将格 瑯琊王氏の王導は司馬越の目付〜西晋東晋過渡期の311年ー318年〜

●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 ●司馬越の後背地下邳を預かる司馬睿 ●司馬越の意向により建業の確保という使命を帯びる司馬睿 ――――――――――――――― ●西晋の後継者争い 司馬睿と司馬保 司馬睿は、愍帝が匈奴漢に降伏して捕虜となった翌317年晋王となっている。…