歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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異民族

姚萇独立するも袋叩きに遭う~羌族の仲良し姚氏~

●異民族の皇帝から脱皮しつつあった苻堅 ●姚萇、苻堅縊死後長安を奪取。 ●孤立する姚萇羌族姚氏集団 ●前秦苻登との泥仕合 ●前秦苻登の失策。 ●姚萇の反撃、苻登の大敗。 ●参考図書: ●異民族の皇帝から脱皮しつつあった苻堅 皇帝を殺すという大チョンボを犯…

姚萇、苻堅殺しの大チョンボ~羌族の仲良し姚氏~

●王猛の死後、苻堅に重用される姚萇羌族集団。 ●前秦苻堅帝国の崩壊。 ●鮮卑慕容部の慕容泓VS姚萇羌族集団。 ●姚萇の大チョンボ。その1 「秦」 ・秦はまずい。 ●姚萇の大チョンボ。その2 ●皇帝のなり方をしらない姚萇 ●皇帝は絶対に殺してはいけない。 ●参…

姚萇が王猛に警戒された本当の理由~羌族の仲良し姚氏~

●苻堅に降る姚萇 ●姚萇のもとでも、結束する羌族姚氏集団 ●王猛から警戒される姚萇の羌族集団。 ●王猛の遺言 ●王猛が羌(姚萇)を警戒した理由 ・羌族集団の結束力 ・姚弋仲の胡漢のバランス感覚 ・実は王猛の考えは羌族姚氏の始祖、姚弋仲と同じ。 ・胡漢融…

1637年朝鮮国王が清のホンタイジに完全従属した日 大清皇帝功徳碑(三田渡の盟約)

●大清皇帝功徳碑(三田渡碑)の要旨5点。 ■清に服属せよ。 ■明を攻めるので従軍せよ。 ■朝鮮の民は清のもの。 ■自衛権を剥奪する ■日本との貿易はしていいから上前をよこせ。 ●大清皇帝功徳碑の原文 ●江戸時代の藩に近い扱いの李氏朝鮮。 ●何故この大清皇帝…

二代姚襄②苻堅に最後は敗死~羌族の仲良し姚氏~

①より続く。 姚襄は東晋に帰属したものの、 東晋陣営との折り合いが悪く、結局自立をする。 ●姚襄、東晋から離反して前燕に付属。 ●姚襄、洛陽にて東晋の桓温と遭遇。 ●姚襄は桓温の第二次北伐と激突 ●姚襄の撤退。 ●357年三原の戦い 姚襄は皇帝になる前の苻…

始祖姚弋仲(ようよくちゅう)~羌族の仲良し姚氏~

高い結束力を誇る羌族姚氏。 これが羌族姚氏の強みである。 歴史上の羌族姚氏は 下記である。 姚弋仲(ようよくちゅう) 姚襄(ようじょう) 姚萇(ようちょう) 姚興(ようこう) 姚泓(ようおう) の五代である。 姚泓は姚興を継いで一年で東晋の劉裕に滅…

淝水の戦い大敗後、前秦分裂。 きっかけは慕容垂。

●淝水の戦いから北魏華北統一まで56年 ●苻堅、淝水の戦いで大敗した後すぐに起きたこと ●前秦外様最大勢力の鮮卑慕容部と羌族姚氏 ●慕容垂、慕容泓、姚萇の独立で、前秦苻堅は崩壊する。 ●慕容垂の自立 ●慕容儁の子で慕容暐の弟慕容泓の自立。 ●姚萇の自立 ●…

幽州の歴史⑧ いよいよ幽州は中華を席巻する覇王の地へ変貌する。

隋唐の異民族、中華皇帝としてのメンツをかけた 高句麗遠征。 ●唐の最盛期は玄宗時代 ●唐玄宗の虚無感とディオニュソス的発想 ●安禄山という災厄は幽州で生まれる。 ●安禄山の幽州が、大唐帝国を席巻した。 これを成し遂げるまでの半世紀の間に、 幽州は中華…

胡漢融合を成し遂げた前秦王猛

●東晋の緩やかな分裂。 ●自制を促す王猛が死去すると、歯止めが利かなくなる前秦。 ●苻堅のナルシスト傾向 ●胡漢融合こそ、前秦の成功要因。 ●東晋の緩やかな分裂。 東晋は、 謝安と桓沖の手打ちにより、 376年 謝安が東晋の実権を握る。 桓沖は桓温以来の勢…

異民族のサラブレッド李世民(唐太宗)

●李世民は宇文泰のひ孫。 ●李世民の皇后も異民族のプリンセス。 ●439年の北魏華北統一=異民族同士の争いに勝利。 ●唐は異民族の貴族王朝 ●李世民は宇文泰のひ孫。 李世民は後周の開祖宇文泰の曾孫である。 あまり知られていない事実である。 母が宇文泰の孫…

慕容評より問題なのは慕容垂だ。

●慕容評の4つの事実 ●慕容儁の、慕容評の扱いと大きな差がある慕容垂いじめ ●従順な慕容評、その存在の特異性。 ●慕容垂は悪人である。 ●慕容評と慕容垂、どちらが奸臣か。 慕容評の実態について、 以下に四点に集約する。 これが実態である。 ●慕容評の4つ…

前燕皇帝慕容儁の成功要因④慕容評の従順さ

後世の評価が低い慕容評。 これは事実ではない。 当時の歴史は、 東晋中心に描かれ、そしてその東晋に立ち向かった 苻堅を異民族の中ではピックアップする。 ●慕容恪をサポートする慕容評 ●慕容恪・慕容評ラインこそが前燕の成功要因。 ●慕容評単独では前燕…

前燕皇帝慕容儁の成功要因③弟慕容恪の胡漢両方のルーツを持つ

慕容恪(ぼようかく)がなぜ輔弼という概念を理解し、 そして実行し得たのか。 ●慕容恪は何故兄慕容儁を輔弼し得たか。 ・弟であること。 ・慕容恪は、異民族と漢人とのハーフ。 ●慕容恪の母の出自、渤海高氏とは。 ●姜斉、田斉の血を継ぐ者こそが中華の本流…

前燕皇帝慕容儁の成功要因②異民族として初めて輔弼をした慕容恪

●慕容恪は軍人として歴史的な人物である。 ●輔弼を初めて理解できた異民族・慕容恪 前燕慕容儁の成功要因は、 弟慕容恪と叔父慕容評の協調体制にある。 これは鮮卑慕容部としては、 稀な事象だということを①にて述べた。 ここでは、 慕容儁の弟慕容恪個人と…

慕容皝が、鮮卑慕容部が中華へ覇を唱える礎を築いた。

●鮮卑慕容部が燕として中華圏の勢力となったのが慕容皝時代 ・慕容皝の方針は、父慕容廆路線を継承。 ●慕容皝体制立ち上がり期の内乱 ・庶兄慕容翰らとの争い ・弟慕容評は慕容皝に従う。 ●慕容皝は鮮卑段部を滅ぼして、燕王を僭称する。 ・石虎を撃退 ・東…

慕容廆 鮮卑慕容部中興の祖

●慕容廆の治世の長さは鮮卑慕容部の安定をもたらす。 ●慕容廆の基本戦略は、西晋・東晋への従属で勝ち残る。 ※「宇文部について」 ●慕容廆が後を継ぐと、庶兄慕容吐谷渾は青海へ去る。 ●慕容廆、王浚・石勒らの攻撃をはねのけ、遼東で自立する。 ・第一の敵…

氐族の前秦苻氏 苻堅に至るまで。

前秦苻氏。異民族の氐族である。 元々は蒲氏である。 後趙石虎死後に苻洪(当時は蒲洪)が 後趙から離反した時に、姓を変えた。 出身は、 略陽(今の甘粛省天水市秦安県。天水市北部)である。 天水秦安なので、 羌族の南安よりも東で、長安寄りである。 苻…

西府軍の祖・名将陶侃、羊祜、劉弘の流れを汲む荊州善政

●陶侃は東晋を代表する名将。 羊祜、劉弘を継ぐ。

石虎の輝かしい功績と不遇

●石勒の、石虎に対する高い信頼 ●石虎の主要な戦歴一覧: ●皇帝の受ける天命は直接の血の繋がりがないと継承できない。 ●石虎は一族ではあるが皇帝位を継げない。 ●中華皇帝、その厳しい条件 ●石虎、鄴を没収される。 石勒と石虎の間には、 ただ一族というだ…

五胡十六国時代・南北朝時代は石勒、苻堅、拓跋珪、宇文泰で理解する。

五胡十六国時代・南北朝時代。 特に北がややこしい。そのプレイヤーが多いこともさることながら、民族名と国家名称が連動せず、混乱する。 そこに南を正統にしたいと言う、中華正統史観が 入ってくると、こんがらがってくるのがこの時代である。 ●4プレイヤ…

漢人と異民族の両方の価値観を押さえた者が中華に覇を唱える。

漢人と異民族の両方の価値観を押さえた者が中華に覇を唱える。 ●異民族の価値観は、攻め。 ●漢人の価値観は守りの価値観 ●漢人、異民族、両者の文明を押さえることができるものこそ英雄 ●古代漢文明の集大成、曹操 中華の歴史は、 漢人と異民族の両方の価値…

石勒を継ぐ者、慕容恪

慕容恪。 父を助けて、慕容部の勃興を助ける。 兄を助けて、前燕帝国の成立を実現する。 そして、華北エリアの大部分を攻め取る。 西は、前秦苻堅を関中に押し込み、陝県(三門峡)を境とし、 南は淮河までを領域とした。 これらを実現したのは、 前燕慕容部…

⑫石勒の中華戦記 石勒、劉曜を滅ぼし、曹操の最大版図に並び立つ。

河北の完全制覇により、 他国に対して圧倒的有利に立った石勒。 劉趙(前趙)や東晋、成漢は劣勢に立たされた。 ●「時」を握る石勒。後継を考え始める。 ●寿春攻略 東晋を長江以南へ押し込む ●劉曜との洛陽決戦 ●長安攻略と劉趙(前趙)の完全滅亡 ●襄陽攻略…

⑪石勒の中華戦記 319年11月胡漢融合を推進する石勒は趙王として自立。河北完全掌握へ

願ったり叶ったりの劉曜からの手切れで、 石勒は自立する大義名分を得た。 ●名実共に石勒の完全独立。趙として立つ。 ●異民族は皇帝になれない、という漢人の理屈に配慮した石勒 ●胡漢融合策を強烈に推進した石勒 このあたり石勒は非常にうまい。表には出て…

⑩石勒の中華戦記 劉趙(前趙)と石趙(後趙)並立。劉曜の嫌がらせ

319年に至り、いよいよ石勒は趙王として完全独立する。 趙皇帝劉曜からの猜疑を受けて手切れとなったためだ。 劉曜から仕掛けて石勒と手切れとなったが、 彼我の戦力は実は劉曜が劣勢である。 劉曜は、 関中を本拠に河東、河内を支配する。 石勒は、襄国、鄴…

⑨石勒の中華戦記 317年6月〜318年末まで 劉聡崩御。靳準反乱。劉曜、皇帝へ。

石勒は、 強大な幽州の王浚・段部の連合を時間をかけて、 ようやく打倒する目処をつけた。 一方で南方は、東晋の反攻はないかと思っていたら、 祖逖という骨のある人物が乗り出して来る。 正面からあたることは避け、 豫州に鎮する祖逖は後回しとした。 そう…

⑧石勒の中華戦記 317年〜318年 祖逖・劉琨の南北挟撃、鮮卑段部分裂、劉琨横死

石勒は并州から劉琨を放逐、 襄国、鄴を中心に、冀州、并州、兗州と幽州の一部を掌握した。 石勒は河北の覇者となった。 この後、幽州段部、匈奴漢本国のそれぞれの内紛が、 石勒に利する。 これらをきっかけに石勒は大きく雄飛することになる。 石勒にとっ…

⑦石勒の中華戦記 314年3月幽州攻略〜316年12月并州攻略まで

「 ②襄国を拠点に華北割拠、華北統一へ。群雄の一人」 という時期の続きである。 ●石勒、314年4月の情勢。幽州不安定、青州曹嶷の離反、襄国飢饉。 ●315年白馬津の南岸を押さえて領域の安定を図る。 ●石勒、事実上の河北の覇者となる。 ●劉聡は、太行山脈の…

⑥石勒の中華戦記 襄国を拠点に華北割拠へ 312年冬〜314年3月まで

石勒は河北襄国に拠点を置き、ここから、 ②襄国を拠点に華北割拠、華北統一へ。群雄の一人 という時期に入る。 ●石勒は襄国と鄴を足がかりに王浚と戦う。 ●王浚、石勒を攻撃。その結果段部が分裂。 ●王浚弱体化、石勒は詰めの一手を指す。 ただ、戦うだけの…

④石勒の中華戦記 王弥暗殺から孤立、葛陂で八方塞がり。311年10月〜312年

311年6月に洛陽が陥落する直前に 石勒は豫州へと向かう。元の戦線へ戻れということである。 道中、付け狙われていた王弥を 途中、多分許昌周辺で暗殺。これで石勒は孤立する。 ●石勒は王弥を暗殺したから逃げたのだ。 ●石勒孤立する。行く当てない行軍 ●劉琨…