歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

石勒

劉淵・石勒 事績が分かりにくい理由

劉淵、石勒に関する書物というのは非常に少ない。 特に石勒は少ない。中華史を大きく変えた人物なのに、注目されないのはなぜか。 ●魏晋南北朝時代は中華圏と異民族圏の壮大な戦いの時代 ●中華と匈奴の合いの子、劉淵の誕生: ●劉淵の志を継ぐ石勒、胡漢融合…

石勒、312年葛陂の悟り=これこそが劉聡、劉曜と袂を分つきっかけである=

石勒が異民族から英雄に進化したのは、葛陂の戦いである。 許昌南西方面の豫州汝陰郡葛陂において、寿春を目の前にして立ち往生したときである。 石勒は司馬睿軍が駐屯する寿春を前に立ち往生。 引用:中国歴史地図集 ●石勒、葛陂にて悟る。 葛陂にたどり着…

石勒はソグド人か②=石勒は安禄山と同じソグド人、祖先は大月氏=

石勒の先進性は、その出自に由来する。 異民族どころではない、歴史の孤児石勒。 その由来を辿る。

石勒はソグド人か①=「石勒」という名前はトルコの当て字=

石勒の出自に関して記述をしたい。 ●石勒の出身民族、羯とは。 ●なぜ石勒は「石勒」という名前になったのか。 ●なぜ、わかりきった名前にしたのか。「石勒」≠匈奴。 石勒は、羌渠部から派生した羯族の一人と言われている。 これはあてにならないと私は考えて…

長江は文化圏を分ける。黄河は幽州を分離=石勒312年江南撤退、襄国本拠設置から辿る=

●長江は文化圏を分ける。 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その1 王浚への対抗 ●石勒は襄国に本拠を定める。理由その2 石勒の強みを最も活かせる土地 石勒の邁進にストップをかけた長江。 これは曹操も同じであった。 長江は移動の弊害という天嶮の意味だけ…

石勒の転機は312年に寿春手前で足止めを食い、建業に攻め込めなかったことである。

石勒の経歴を端的に記す。 中原から長江北岸までを散々荒らし回ったが、 華北に帰り、拠点を設け、覇道の道へと進む。 その結果、華北東半分の覇者となり、劉曜との洛陽最終決戦に望み、勝利。 晴れて皇帝となり、中原の覇者となる。 こうした輝かしい異民族…

都市に関心がない異民族=石勒は江南で敗れて襄国に帰るまで都市を占領統治しない。

石勒をはじめ、異民族というのは都市を統治しない。 都市の活用の仕方がわからないのである。 ●ただ、中華内地を荒らすだけの石勒 ●北方異民族にとって都市自体に価値はなかった。 だから、とにかく略奪するのみ。 おかげで石勒は三度も鄴を陥落させることに…

西晋を滅ぼした石勒、曹操との類似性。

◾️石勒の遺言と曹操の遺言の比較◾️ ●石勒という奴隷出身者と、曹操という宦官の「孫」、究極の成り上がり。 ●中原の確保。事実上の天下取り。 ●中華統一王朝後漢と西晋を事実上の滅亡に追い込む、曹操と石勒。 ●「鄴」を本拠に置く、軍事重視の姿勢。 ●胡漢…

石勒というカタストロフィ〜本来石勒は英雄だった〜

石勒とは何者か。 歴史に埋もれた英雄である。 ●石勒の実績は四つの史上初と、中華統一王朝を滅ぼすという歴史的快挙 ●中華史上の快挙である石勒が異民族である悲劇 この人物は、中華史上、最大の成り上がりを成し遂げた人物である。歴史の流れから考えると…

三つ巴の中華覇権争奪戦が311年6月から始まる。~永嘉の乱以後~

311年6月に西晋皇帝懐帝が、匈奴漢に捕らわれてから、 中華覇権争奪戦が始まる。 330年9月に石勒が皇帝となり、華北の覇者としての地位を確立するまで続く。 約20年の争乱である。 ①匈奴漢皇帝 劉聡=匈奴優先= ②石勒=異民族・漢人対等融合= ③西晋残党=…

310年11月司馬越軍の行き先は石勒討伐ではない。~④軍事戦略から紐解く~

司馬越の動きと石勒の動き。 地図から彼らの位置関係を見れば、 意図がわかる。 さらっと流してはいけない、司馬越と石勒の向かう先。

司馬穎の不在が公師藩・汲桑の乱を生み、石勒という英雄を生み出す。

司馬穎の政治生命は、 301年4月の司馬倫の対賈后クーデターから頭角を現し、 304年8月鄴陥落、304年12月に皇太弟を廃されて、 事実上政治生命を終えてしまった。 司馬穎の命は、306年10月に終わる。 劉淵の雄飛 石勒の登場 石勒の生い立ち 公師藩の挙兵 汲桑…

邯鄲⇔晋陽の高いアクセス性(上党を中心に東西にアクセス)

山西高原には二つのエリアがある。 ①山西高原のメインエリア ②上党郡 「刑、信都、襄国、巨鹿」「鄴」「安陽・殷墟」「中山国・中山・石家荘」 山西高原から太行山脈を抜けた先にあるのが邯鄲である。 山西高原には二つのエリアがある。 ①山西高原のメインエ…