歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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西晋

西晋は賈充に始まり賈充に終わる

司馬懿・司馬師がきっかけを作ったとはいえ、 賈充こそが司馬氏の方向性、 西晋成立への道筋を作った。 西晋成立後は、 賈充こそが、例えば、前漢の蕭何のように、 名臣として振る舞えば 王朝は長らく継続したかもしれない。 しかしながら、彼は 保身に走り…

265年魏晋革命前夜に魏晋それぞれの政権中枢にいる者たち

上記が西晋司馬炎への禅譲前夜の主要役職者である。 魏王朝の朝臣と晋王朝の朝臣である。 実績のわかりにくい人物が多い。 五つのカテゴリーに分類できる。 司馬炎の身内、名族、実務官僚、荀氏、司馬氏与党。 貴族名族ばかりかと思いきや、 案外とバランス…

西晋武帝司馬炎は、祖父司馬懿と叔父司馬師のツケを背負う。

------------------------------【政権掌握期間の羅列】 ①高祖宣帝司馬懿249-252 3年 ②世宗景帝司馬師252-255 3年 ③太祖文帝司馬昭255-265 10年 ④世祖武帝司馬炎265-290 25年 ⑤恵帝司馬衷290-306 16年(途中301年1月から4月まで譲位し太上皇となっていた。…

「外戚」依存の司馬氏三代、司馬師・司馬昭・司馬炎。

※外戚とは本来皇帝や王の母及び正妻の一族を指すが、 ここでは広義として使う。 司馬炎の正妻は、弘農楊氏。 司馬昭の正妻は、東海王氏。(王粛の娘。王粛の父は王朗。) 司馬師の正妻は、泰山羊氏。 非常に力の強い外戚をそれぞれ持っている。 これは、 中…

武帝司馬炎の過ちと勘違い=名族への対処=

=名族達が皇帝にしてやった武帝司馬炎= =当時「皇帝」という地位は、大きく暴落していた= 265年12月に、 魏晋革命が成った。 魏元帝は司馬炎に禅譲を、 司馬炎は皇帝となる。 死後、武帝と諡号される。 しかしながらこの禅譲は名族の支持があってこそで…

西晋成立当初から孤立し始めていた武帝司馬炎を誰が支えたのか。

結論として、武帝司馬炎は、政権末期外戚の楊氏に頼る他なかった。 それ以外は何故頼りにならなかったのか。 4つのカテゴリーから説明する。 ---------------------------------------- ●親族(宗族と呼ぶ) 自家の利益ばかりを考えた。 ●姻族(ここでは外…

ほぼ丸腰状態で禅譲を受けた西晋武帝司馬炎

●司馬炎は29歳で魏元帝から禅譲を受ける。 ●司馬炎は政治経験がほぼなかった。 ●司馬炎自身には何の実績もないままの禅譲成立。 ●司馬炎は実は後継者争いを乗り越えて即位している。 ●河内司馬氏の与党・譜代がほぼいない中の西晋成立。 司馬昭は司馬攸を後…

司馬昭が受けた、晋公・相国・九錫の意味

司馬昭以前に九錫を受けたのは、 王莽・曹操・孫権である。 司馬昭含めて四者を比較する。 比較すると、司馬昭が輿論形成に腐心していたことがよくわかる。 ●王莽の場合: 足掛け9年、九錫を得てから4年で禅譲である。 大司馬に就く前に王莽は左遷されていた…

魏晋南北朝時代の対立軸

魏晋南北朝時代の対立軸を下記に 羅列する。 基本的に左記のカテゴリーは全て同じ派閥と考えて良い。 同じく右記のカテゴリーも全て同じと考えて良い。 もちろん法に長じながら、出自は名族の一つに入り、 儒家・保守的な賈充のような存在もいる。 中道寄り…

九品官人法の弊害 門地二品

どういう状況か。 日本で言うと、公家の家格により、極官が決まっていることと同じ。 摂関家以下、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家など。 摂関家しか、摂政関白になれない。 清華家は、太政大臣まで。近衛大将・大臣を兼任できる。 (江戸時代は左大臣ま…

司馬望③:司馬孚・司馬望父子の、河内司馬氏としての在り方

司馬孚の次男司馬望は、 司馬朗家を継いだ。 司馬孚は司馬望を後見する。 族長である、 兄司馬懿が死去すると、 司馬懿家も、一族の長老として後見する。 と言っても、司馬師・司馬昭はもう中年期に入っているので、 支援する程度である。 司馬懿家は、司馬…

司馬望②:魏晋における名族の長は誰になるかに関する考え方

司馬望は、司馬八達の長男家を継いだ。この立場は、河内司馬氏においてどのようなポジションになるのだろうか。ところで、 この河内司馬氏は、養子縁組が兄弟間でとても多い一族だ。 何かポリシーのようなものがあったのか、それとも兄弟が仲がよかっただけ…

司馬望①:司馬望は司馬朗を継いだのではなく、司馬朗の嫡子早逝により、養子となり後を継いだ。

魏皇帝曹髦が交流を深めた、四人のうち、 司馬望という人物がいる。 司馬望は生年205年 - 没年271年である。 司馬懿の弟、司馬孚の次男である。 司馬望こそ、この時代の名族、支配者階級の典型的なスタンスだ。 司馬望について説明したい。 司馬望は、早い段…

249年正始政変から265年西晋成立までの五つの反乱

①251年王凌の乱→伝統的儒家名族の反乱。 ②255年毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽の乱 →魏の武官の反乱。 ③257年諸葛乱の乱 →余分。賈充が吹っ掛けた。 必要のないものだったからこそ、激戦。 ④260年魏皇帝曹髦弑逆される。 ⑤264年鍾会の乱→玄学清談派である鍾…

賈充とは~ まとめ

賈充のことを、中国史上の権臣たちと同様に、 権力を極めようとしたと考えると、見誤る。 賈充はトップとして、責任を取りたくないタイプだ。保身の人である。 頭がいいので、ギャンブルをする勝負師にも見えるが、実態は非常に慎重で臆病な人物だ。 賈充は…

賈充のしたこと~時系列~

257年諸葛誕の乱を引き起こす。 この乱が賈充が引き起こした詳細な事情に関しては 司馬昭すらも知らなかったかもしれない。 司馬昭の息子司馬攸に娘を嫁がせる。 舅となる。司馬昭と姻戚関係になる。 260年曹髦弑逆 263年鍾会の乱 長安まで進駐する。 もう司…

賈充が西晋の在り方を決めた。

賈充は儒家と法家を交えた施政を行なったが、 重要なところで、 我田引水を図った。 そもそも、 皇帝曹髦の弑逆も、 賈充が自死すれば、良かったのだ。 それほどの大罪なのだ。 これで皇帝の価値は地に堕ちた。 刃を向けていい存在にしたのだ。 残念ながら、…

西晋武帝司馬炎 禅譲に対する大義名分の主張~王朝賛歌の歌から~

一方で西晋が当時自身が禅譲を受けるに値すると考えていた 大義名分と実績を考えたい。 (引用元は主に「西晋の武帝 司馬炎 福原哲郎氏著 白帝社」から) 266年(泰始2年)新しい王朝で 宮廷やはり宗廟で用いられる音楽が披露される。 ここに当時の西晋王朝…