歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈充

賈充と羊祜

賈充は非常に人間臭い人物である。 このような人はいないだろうか。 強い劣等感を持って歯を食いしばりながら、 我慢をし嫌な仕事をして上長にも嫌な顔をせずに 従う。 とはいえ、元々能力があるので、 高い実績を挙げることができ昇進する。 しかしながら、…

賈充と羊祜に影を落とす西晋の呉討伐と禿髪樹機能の乱

西晋武帝司馬炎が、 対呉遠征を企図し始めたのは、 269年に羊祜を都督荊州諸軍事として、 赴任された頃からだ。 271年には裴秀が死去するが、 その際に残した建言として呉討伐を進言していることからもわかる。 羊祜は長らく、 中央にあって司馬氏の政権掌握…

西晋瓦解のシナリオは賈充の死から始まる。

282年に賈充が死去する。 最後は魯公にまで昇った。 曹髦弑逆の実行者のため「荒公」と諡名されそうになるが、 「武公」となった。対呉討伐の総司令官として中華を統一した賈充にふさわしい諡号である。 西晋政権の重鎮である 賈充が死去したことで、政権が…

西晋は賈充に始まり賈充に終わる

司馬懿・司馬師がきっかけを作ったとはいえ、 賈充こそが司馬氏の方向性、 西晋成立への道筋を作った。 西晋成立後は、 賈充こそが、例えば、前漢の蕭何のように、 名臣として振る舞えば 王朝は長らく継続したかもしれない。 しかしながら、彼は 保身に走り…

賈充とは~ まとめ

賈充のことを、中国史上の権臣たちと同様に、 権力を極めようとしたと考えると、見誤る。 賈充はトップとして、責任を取りたくないタイプだ。保身の人である。 頭がいいので、ギャンブルをする勝負師にも見えるが、実態は非常に慎重で臆病な人物だ。 賈充は…

司馬師と賈充の関係~賈充を引き上げたのは司馬師~

どうも賈充を引き上げたのは、 司馬師のようである。 毌丘倹の乱の折、討伐に従軍している。 司馬氏サイドで賈充が登場するのはこれが初めてとなる。 司馬師は当時大将軍の位にあった。 大将軍は、開府することができる。 大将軍自身の幕僚を抱えることがで…

賈充のしたこと~時系列~

257年諸葛誕の乱を引き起こす。 この乱が賈充が引き起こした詳細な事情に関しては 司馬昭すらも知らなかったかもしれない。 司馬昭の息子司馬攸に娘を嫁がせる。 舅となる。司馬昭と姻戚関係になる。 260年曹髦弑逆 263年鍾会の乱 長安まで進駐する。 もう司…

賈充が西晋の在り方を決めた。

賈充は儒家と法家を交えた施政を行なったが、 重要なところで、 我田引水を図った。 そもそも、 皇帝曹髦の弑逆も、 賈充が自死すれば、良かったのだ。 それほどの大罪なのだ。 これで皇帝の価値は地に堕ちた。 刃を向けていい存在にしたのだ。 残念ながら、…

賈充を事実上の人臣最高位に押し上げたのは、司馬昭の後継者問題だ。

賈充を引き上げたのは、 司馬昭の後継者問題だ。 司馬昭は司馬攸の正妻に、賈充の娘を迎えている。そのタイミングは258年5月以降260年5月以前だ。 司馬昭の息子に、 司馬攸という人物がいる。 司馬昭は、司馬攸を後継者にしたかった。 賈充は司馬攸の婿にな…

賈充はついに皇帝を人間にした。~満天下で初めての皇帝弑逆~

260年、 皇帝が初めて、青天の下、衆目のある中で殺された。 密室の毒殺などではなく、 確実に臣下に殺されたのはこれが初めてである。 魏の皇帝曹髦が、賈充の指揮の下、 成済が曹髦を刺殺した。 あまりのことで、この事件は、名称がない。 三国志を著した…

諸葛誕の乱は余分だ。その3 ←賈充の焦り

諸葛誕が反乱を起こす必要がない理由: ------------------------------------ ①諸葛誕は実は司馬氏の姻戚である。 ②司馬昭は、玄学清談に理解があった。 ③つまり曹爽や夏侯玄も理解があった。 ④諸葛誕は夏侯玄と親しかった。 ⑤諸葛誕の揚州諸軍事任命は、実…

賈充は功名心のために諸葛誕を陥れた。焦っていた。賈充は出遅れていた。

賈充は焦っていた。 不安に苛まれていた。 四つの理由がある。 ①賈充は曹爽一派であった。 →正始政変で曹爽一派は滅亡。 ②賈充は李豊の娘婿だった。 →李豊の変で、李豊は誅殺される。 ③賈充の父は法家だった。 →魏の厳しい法家を嫌い、儒家の寛容の政治を志…