歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈后

八王の乱の対立構図、賈后対皇太子は五胡十六国時代の終焉まで続く。

匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。 司馬越はこれらに対抗する。 この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。 それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。 ●賈后派と司馬穎派: ●北魏の華北統一は新しい時代の到来を…

八王の乱は、五連発の政変で説明しきれる。

八王の乱は五連発の政変を指す。

八王の乱⑨ 司馬倫の輔佐孫秀が賈后政権を終焉させる。

賈后は恵帝の後継者争いに始まり、 賈后の実子の問題に至るまで常に不安に苛まれていた。 父賈充は権臣とはいえ、 もう一人の娘が恵帝の後継者争いのライバルに嫁いでいるのは大きい。 賈后がクーデターを起こした291年から299年までは 安定していた。 しか…

賈后の立場はいつも不安定。

賈后が命取りになったのは、 恵帝の皇太子司馬遹を廃したことにある。 291年に始まる賈后政権は、イメージとは異なり、 非常にバランスの良い政権であった。 実務能力の高い、張華・裴頠を中心に、 外戚、宗族、名族、賈謐二十四友を中心とした寒門がバラン…

賈后評価の誤解〜賈后の動機は自己防衛〜

賈后を冷静に見つめ直したい。 賈后は、結果として、 政権運営の能力がある。 夫恵帝が皇帝即位までに至る最大の功労者であり、 恵帝の高い信頼を得ていた。 しかし、自身の立場の不安定さに常に苛まれており、 賈后の立場を脅かすような周囲の行動に極めて…

賈謐にとっての、「賈謐二十四友」とは何なのか。

【賈謐二十四友は、賈謐と石崇が手を結んだことによる産物である。】 賈充の外孫で賈充家の当主賈謐は長じて、 士大夫と交流を積極的に持つ。 それらは賈謐二十四友と呼ばれる。メンバーは、 石崇・欧陽建・潘岳・陸機・陸雲・鏐世徴・杜斌・摯虞・諸葛銓・…

八王の乱⑧ 賈后政権の構成 賈充の政敵張華と司馬越の父司馬泰が参画

【賈后政権】ーーーーーーーーーーー さて、賈后が政権を摂るが、 この期間は安定していたことは間違いのないことである。 ちょうど、元康年間(291年ー300年)とほぼ同時期である。 賈后が政権を摂ったとはいえ、政権運営ができるわけではない。 本来は、…