歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

鍾会

鄧艾浮かれる。鍾会恨み妬む。衛瓘悪運強し。

鄧艾が263年11月に蜀漢を滅亡させた。 司馬昭は263年10月22日の魏皇帝の詔勅により、 晋公・相国・九錫を受けていた。 その後の快挙である。 漢皇帝劉禅の降伏は、263年の11月とされるが、 姜維の降伏は12月なので、 少なくとも漢皇帝の降伏は、11月の後半で…

鍾会反乱の理由は、司馬昭の評価ミス

鍾会反乱の理由は、 司馬昭の評価ミスである。 ●鄧艾は蜀漢討伐に反対であった。 ●実は、鄧艾は初戦で作戦を失敗している。 ●鄧艾は寒門、鍾会は名族である。 ●鄧艾は、鍾会に配慮は全くしていない。 ●鍾会は、10万の軍勢で、軍監衛瓘が従軍している。 鄧艾…

鍾会の作戦は漢中まで~鍾会⑧~

鍾会の作戦は漢中までだったと思われる。 鍾会が確実に見込んでいたのは、 漢中攻略まで。 それ以後は、状況次第だったと 私は主張する。 漢中は盆地である。 南に蜀、現在の四川省がある。 北に関中、渭水盆地がある。 漢中の北には秦嶺山脈が東西に広がる…

鍾会 初の挫折 鍾会⑦

士会たれ、士会でありたい。→それぞれ、母張昌蒲と、鍾会の思い。 才性四本論→鍾会としては、才能があれば、実績が上がれば良いという考え。 鍾会の生い立ち→父不在。母の影響が強い。かなりのハードマネジメント。 257年の母の死後、その屈折した感情が徐々…

何故鍾会が征蜀の総大将か。 鍾会⑥

司馬昭は、 司馬氏生き残りのため、 なんとしてでも蜀漢を討滅させなくてはならなかった。 鍾会は、 自身の才能を認めさせ、成り上がるために、 蜀漢の攻略が必要であった。 蜀漢の討伐に賛成しているのは、 司馬昭と鍾会のみだった。 司馬昭は、鍾会には任…

鍾会の主張は実力主義・成果主義=鍾会の「才性四本論」= 鍾会⑤

鍾会の著書「才性四本論」における 「性」とは何を指すのか。 それは人柄を指す。 王莽、光武帝以来、後漢では、 儒教思想で素晴らしいとされる人が採用されてきた。 人材採用、具体的な方法は郷挙里選である。 各選抜項目があるがその中で最も重要視された…

鍾会の本心〜母の死後に馬脚を現す鍾会〜鍾会④

鍾会の、母の存命中の事績は少ない。 しかし、母の死後の鍾会の成果は全て狡猾で、 なんともアクの強いエピソードばかりである。 四書五経を修め、それに則って行動したとはとても思われない。 春秋晋の士会のような、真っ直ぐさもない。 孟母顔負けの鍾会の…

鍾会の生い立ち 鍾会③

【鍾会の出生】 【鍾会の父鍾繇】 【鍾会の母とは】 【鍾会 母の影響 マザコン】 ーーーーーーーーーーーーーーー 【鍾会の出生】 鍾会は、鍾繇の子である。 鍾会は生年225年ー没年264年、 父鍾繇が74歳の時の子供である。 (数えでは75歳) 鍾会の出生は曰…

鍾会の思想〜才性四本論:人材とは、評価とは〜鍾会②

【鍾会の思想 才性四本論 人材とは、評価とは】 鍾会は、著書の一つとして「才性四本論」を書いている。 これは、二つの意味で重要だ。 一つ目は、鍾会自身が志向したあり方。 二つ目は、魏末における人材およびその評価の判断軸がわかるという点。 これは…

鍾会は「士会」である。 鍾会①

【鍾会の字に秘められた思い~鍾会は士会である】 ●鍾会は19歳に官途につく。 その際に自身の字を決めたと思われる。 礼記では、20歳で加冠し字を決めるとある。 官途につく、すなわち社会人になるということは、 身内ではない他者との交流をすることであり…