鍾会
鄧艾が263年11月に蜀漢を滅亡させた。 司馬昭は263年10月22日の魏皇帝の詔勅により、 晋公・相国・九錫を受けていた。 その後の快挙である。 漢皇帝劉禅の降伏は、263年の11月とされるが、 姜維の降伏は12月なので、 少なくとも漢皇帝の降伏は、11月の後半で…
鍾会反乱の理由は、 司馬昭の評価ミスである。 ●鄧艾は蜀漢討伐に反対であった。 ●実は、鄧艾は初戦で作戦を失敗している。 ●鄧艾は寒門、鍾会は名族である。 ●鄧艾は、鍾会に配慮は全くしていない。 ●鍾会は、10万の軍勢で、軍監衛瓘が従軍している。 鄧艾…
鍾会の作戦は漢中までだったと思われる。 鍾会が確実に見込んでいたのは、 漢中攻略まで。 それ以後は、状況次第だったと 私は主張する。 漢中は盆地である。 南に蜀、現在の四川省がある。 北に関中、渭水盆地がある。 漢中の北には秦嶺山脈が東西に広がる…
士会たれ、士会でありたい。→それぞれ、母張昌蒲と、鍾会の思い。 才性四本論→鍾会としては、才能があれば、実績が上がれば良いという考え。 鍾会の生い立ち→父不在。母の影響が強い。かなりのハードマネジメント。 257年の母の死後、その屈折した感情が徐々…
司馬昭は、 司馬氏生き残りのため、 なんとしてでも蜀漢を討滅させなくてはならなかった。 鍾会は、 自身の才能を認めさせ、成り上がるために、 蜀漢の攻略が必要であった。 蜀漢の討伐に賛成しているのは、 司馬昭と鍾会のみだった。 司馬昭は、鍾会には任…
鍾会の著書「才性四本論」における 「性」とは何を指すのか。 それは人柄を指す。 王莽、光武帝以来、後漢では、 儒教思想で素晴らしいとされる人が採用されてきた。 人材採用、具体的な方法は郷挙里選である。 各選抜項目があるがその中で最も重要視された…
鍾会の、母の存命中の事績は少ない。 しかし、母の死後の鍾会の成果は全て狡猾で、 なんともアクの強いエピソードばかりである。 四書五経を修め、それに則って行動したとはとても思われない。 春秋晋の士会のような、真っ直ぐさもない。 孟母顔負けの鍾会の…
【鍾会の出生】 【鍾会の父鍾繇】 【鍾会の母とは】 【鍾会 母の影響 マザコン】 ーーーーーーーーーーーーーーー 【鍾会の出生】 鍾会は、鍾繇の子である。 鍾会は生年225年ー没年264年、 父鍾繇が74歳の時の子供である。 (数えでは75歳) 鍾会の出生は曰…
【鍾会の思想 才性四本論 人材とは、評価とは】 鍾会は、著書の一つとして「才性四本論」を書いている。 これは、二つの意味で重要だ。 一つ目は、鍾会自身が志向したあり方。 二つ目は、魏末における人材およびその評価の判断軸がわかるという点。 これは…
【鍾会の字に秘められた思い~鍾会は士会である】 ●鍾会は19歳に官途につく。 その際に自身の字を決めたと思われる。 礼記では、20歳で加冠し字を決めるとある。 官途につく、すなわち社会人になるということは、 身内ではない他者との交流をすることであり…