歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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北京は『北の都』ではない、真ん中なのだ。都はやはり「中央」 にある。

私はいま北京に来ている。

 

北京は古くは幽州と呼ばれ、

ほの暗い辺境の地として扱われた。

 

君主の諡号として「幽」は「霊」と

並んで最低のものだから、

当然北京は全く良いイメージはない。

 

また北京はその名に「北」という感じが入っている。

何かチャイナ大陸を考えるときに、

どうしても上に寄っている感じがする場所だ。

 

北京を「北京」と名付けたのは、

明の永楽帝だ。

父洪武帝が首都に定めた南京に対して、

北の都という意味で、「北京」。

 

しかし、ユーラシア大陸地図の中の北京を見て欲しい。

北京は東アジアのちょうど真ん中に位置する。

南は海南島から北はバイカル湖

(それより北はシベリア。ロシア人自身住める場所ではないと認めている。ロシアでは5年の懲役刑でシベリア送りでは死刑当然の認識だ。)

までの上下の枠を考えるときに、

北京はちょうど真ん中にある。

1月の北京は、日本で言うと北海道・根室と同等の

寒さだが、それが東アジアの地理的中心なのだ。

 

東西で見ると、

シルクロードの東端が、北京だ。

北京より先に行くには、

湿地帯を過ぎないと、朝鮮にたどり着けず、

馬が使えない。

北京を拠点として、シルクロードの貿易が行われる。

馬を使えば、なんとドイツまでは何の問題もなくたどり着けるのだ。

岡田英弘氏は、

北京からベルリンが草原の民のテリトリーだと言っている。

 

フビライが大都を今の北京に置いたのは、

そこが草原の民の1つであるモンゴルの東端であったためである。

明の永楽帝が北京に首都を置いたのは、

北はバイカル湖まですなわちモンゴルの領域までを

支配しきるという意思の表れ、見栄でもあった。

明は支配できなかったため、草原の民の脅威を

真っ向受けることになる。

 

 

明は当然中華皇帝。

自身が支配する真ん中、それが

北京。モンゴルの残党は賊であり、

その支配を認めない。

北京を中心とした同心円が中華世界。

ただ明がその賊を支配できなかっただけ。

賊がそばにいたから攻撃を何度も受けただけ。

 

明の永楽帝はモンゴルの残党北元対策のためとか

自身の根拠地に移したというが、

そうではない。

大元帝国を継ぐ大明帝国としての

首都北京である。

中原を中心とした昔のチャイナを継いだのではないんだという意思表示だ。

 

歴史を感じられる場所に居られるのは幸せである。