歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

魏の礎を創った魏文帝曹丕・陳羣、そして司馬懿

三人の共通点は何か。

 

私は曹丕・陳羣・司馬懿の三人ともが

非常に厳格な家に育ったことを挙げたい。

このため、三人ともが、

他人に非常に厳しいことを主張したい。

 

これが魏王朝の政治が、苛烈であったと評価される。

魏末晉初によく出てくる表現だ。

寛恕の精神はなかった。

 

魏文帝曹丕は、非常に厳しい後継者争いを戦ってきた。

多分曹操の本命は曹植であったであろう。

216年曹操が魏王に昇り、王太子の詮議が行われたところ、

蔡邕の建言でようやく王太子、すなわち後継者は曹丕はとなった。

 

それまでは逆に曹丕は嫡男にも関わらず、

(張繍との戦いで曹操を身を呈して守り戦死した曹昂という兄がいた。)

宙に浮いた存在であった。

 

次弟の曹彰は、烏桓征伐で功績のあり武勇に優れていた。

三弟の曹植は、詩に通じ曹操に可愛がられていた。

 

曹丕は後継者と目されるポジションなので、

後方を守っていたのだろうが、実績も目立たない。

 

当時は群雄割拠、内乱状態でまさに実力主義の時代。

曹操は、中国史上でも一二を争うほどの能力主義の

人材登用を行なった。何かエッジが立つものがあれば他は何も気にしない。

曹操自身がまさに文武両道、古典にも通じ、オールラウンダーであった。

 

そのような時代の、そのような曹操の息子は、

文武両道を求められる。能力主義で判断される。

嫡男だからと言って後継者になれるわけではない。

実力次第。

曹丕自身に騎射に優れ、皇帝になってからは

典論を著し、幅広い見識を持つ皇帝だが、

曹操に可愛がられた形跡は見当たらない。

曹操の後継者争いが曹丕にとって非常に過酷だったことは、

皇帝になってからの対応でわかる。

 

曹丕は非常に厳しく皇族を処遇した。

皇族は官職についてはならず、任国にも赴任させてもらえなかった。

事実上の軟禁状態である。

何せ皇族は何もできないのだ。血のスペアである以外に

曹丕は何の価値も見出していないのだ。

曹丕が後継者争いがに勝ちきったからこその報復だろう。

これは曹丕臨終の際に遺詔として明帝曹叡に指示され、

魏の国是となる。

 

一方、群臣の中から引き上げられたのが

陳羣・司馬懿だ。

この二人も非常に厳格な家の出身だ。

自分にも厳しい。

 

陳羣は祖父に清流派陳寔を持つ。

この三代で急速に名を挙げた一族だ。

陳羣は行動にもモラルを求めるスタンスで、

郭嘉の不行跡を曹操に訴えている。

もちろん曹操には受け入れられなかったが、

このような誠実で裏表のないスタンスを曹丕は気に入った。

 

司馬懿は八達の一人だが、

父司馬防は、自分の指示がなければ自身の前に

子を立たせることがなかった

ぐらいの厳しい家庭だった。

司馬懿自身は公孫淵討伐のときに「景観」

(敵の戦死者の遺体を積み上げて山を作る)を作ったり、

曹爽一派の族滅など苛烈だ。

諸葛孔明との対峙も、ある種弱腰に見えるほど自制心が強い。

相当に自分にも厳しくないとできないことだ。

 

常に曹操の後継者の一人として、

世間から評価をされてきた魏文帝曹丕としては、

この二人のような他人にも自分にも

厳しい人間だけを信頼・尊敬できたのではないか。

 

曹丕は曹操に仕えた元勲よりこの二人を優先した。

曹操への強い反発があった。

また曹丕の非常に強い意志が、曹操時代の功臣を遠ざけた。

二世ではなく、自分で王朝を作り上げるという

強烈な意志だ。

 

曹丕の国是、

陳羣の内政、

司馬懿の軍事、

が魏の礎となった。

それは他人にも厳しい、寛容の精神のない国家を作った。

 

曹丕は臨終の際に後事を託したのは

 

虎豹騎(曹操親衛隊)の曹真・曹休、

(11歳から従軍していた曹丕はこの二人と戦場で接点が多かったのだろう)

そして陳羣・司馬懿だった。

 

史書の順序は、

曹真・陳羣・曹休・司馬懿である。