歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

魏の基礎を作ったのは、名君魏文帝曹丕。

存在が隠れがちな帝王、曹丕。(187年ー226年。在位220年ー226年)
三国魏の開祖である。

私は名君の一人だったと主張したい。
この曹丕が魏の基礎を作った。
曹丕のスタンスが後年に影響を及ぼす。

父曹操の陰に隠れがちで、
治世も6年と短くあまりフォーカスされない。

だが、
曹丕は、

史上2回目(史上初の禅譲は王莽)の禅譲を行い、
初めて禅譲後に皇位を子孫に伝えた初めての人物

である。

曹丕の事績からその人柄を探りたい。

●文武に優れる
父曹操や弟曹植に肩を並べるほどの詩の名人である。
中国史上初の文学評論「典論」を編纂。自身も筆を取る。
騎射に優れる。曹叡との狩りのエピソードが伝わる。
曹操親衛隊の虎豹騎のメンバー・曹真や曹休との関係も良好。

※曹真は曹氏だが、曹操の身代わりになって死んだ者の遺児で、
養子にしたため、曹氏を名乗る。
※曹休は、曹操の従兄弟の子供のようだが、その曹操の従兄弟の名前、
すなわち曹休の父の名前は不明。

●漢の轍を踏まないため、
皇太后および宦官・外戚・皇族の権力抑制。
皇太后への上奏を禁止、
宦官を一定以上の地位に就かせない、
外戚に政治に携われない、
皇族を官職に就かせない、
という徹底したものであった。

※曹丕の皇族に対するスタンスは徹底していて、
曹操の子の名前がわからないほどだ。
一例で言うと、張魯の娘と結婚した曹操の子が誰かわからない。
曹叡が養子としていた斉王曹芳の父がわからない。
斉王は曹操の孫であるはずなのに。


●民を慰撫した。
肉刑・酷刑をなくし、私刑・仇討・密告を禁止。
●曹植と激しい後継者争いをした。
そもそも嫡男ではない。三男。
母も初めから正室だったわけではない。
●曹操に最高の「武帝」という諡号を追贈。
曹丕は曹操と同様、質素な墓にするよう遺言。
父に対しての尊敬の念。

よく批判されるポイントは下記にまとめた。

●皇后甄氏に関して
袁煕から略奪。
禅譲後の221年に自死を賜う。
※皇后甄氏に関して
袁紹の子袁煕の妻だったが、曹操の、官渡の戦い後の
袁紹勢力討伐で、袁煕の屋敷にいた甄氏を見初め略奪した。
皇后甄氏との子が、のちの魏明帝曹叡である。

曹丕の禅譲後の221年に、皇后甄氏は曹丕から死を賜う。
元々寵愛が薄れていたが、禅譲後、のちに皇后に立てられる
郭氏をはじめとして他の女性に曹丕の関心が薄れたことを悲嘆し、
先の皇帝・後漢献帝の娘二人が入内したことに対して恨み言を
言ったことがきっかけとなり曹丕から死を賜る。

●丁儀・楊駿の誅殺。
曹植との後継者争いで揉めた結果であった。
●鮑勛の誅殺
鮑勛(ほうくん。
父は鮑信。曹操の起業を助けた建国の功臣と言ってもよい人物)の
諫言を嫌がり、
鍾繇・華歆・陳羣といった名臣助命嘆願を聴かず、
最終的に微罪で処刑した。
●関羽に降伏した于禁を憤死させる
●曹洪との借金で揉める

私は曹丕が相当な人物で文武両道の英傑であるにも関わらず、
後継者争いのためか、強いコンプレックスを持っていると考える。
自分を厳しく律していると相当な立場の人間が失敗することを
許せない。諫言を聞き流すことができない。
周囲の評価に対して、
自己評価が低い人の特徴だ。
少し蔑ろにされたり、されたと感じると厳しいアプローチを
してしまう。

呉への連年の遠征はそのためではないか。
孫権は詐欺によって蜀漢劉備から荊州を奪った。
その報復を恐れて、孫権は魏に帰順した。
曹丕は孫権を呉王に封じた。
しかし諸葛亮の切り崩しにより、孫権は蜀漢と同盟し、
曹丕は面目を失った。そのための呉遠征である。
面従腹背の孫権は、詐謀を好むので、曹丕は面目を失ったのだ。

よく批判される鮑勛の処刑、甄氏への賜死については、
王朝初代としての、自分自身に対する
特別感というのもあったと思われる。
禅譲を受けた自分自身が本当に特別な存在に感じる。
にもかかわらず直言してくる人間が不快ではないわけがない。
処刑に対するハードルが低くなる傾向がある。
高祖劉邦・洪武帝朱元璋の粛清はよい例だ。
曹丕は功臣を粛清しなかっただけ、両者よりも上だ。

●後漢献帝は生かした。
献帝は最終的には寿命を全うする。
献帝に対して酷薄さはなく、儒教的な倫理観に則った。
●虎豹騎のメンバーと仲が良く、
戦場でも臣下に近いスタンスで戦いに臨んだのだろう。

曹丕は政策に関しては的確な対応を行った。
説明がしにくいのは、
皇后甄氏を略奪したことぐらいか。

先代曹操の功臣尊重しながら、
自身の幕僚・陳羣と司馬懿を上に引き上げ、
自身に権力を集中させることに成功した。
九品官人法も中正官を派遣して推挙する人材を探す、
官吏採用を皇帝権に付属するためのものである。

私は曹丕を名君の一人として考える。
政策も6年と短い期間の中、推進できた。
着実に禅譲後をこなした帝王である。