歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

司馬懿、49歳にして初めての武勲~諸葛孔明第一次北伐~

ここからが司馬懿の本領発揮だ。

曹丕の寵臣として、人臣くらいを極めた司馬懿。

曹丕の崩御で終わるはずだった司馬懿のキャリア。

これが、逆に司馬懿の栄達をもたらす。


まず南陽郡宛へ出鎮させられる。

明帝に煙たがられたわけだ。

司馬懿は年齢も47歳で、中央から離れ、悲観もしたであろう。このまま終わるのかと考えてもいいシチュエーションだ。

それも、経験のない将軍職、そして最前線。

普通は嫌がる。嫌がって当然だ。


しかし、

一年経たないうちに、チャンスは訪れる。

上庸郡の孟達が、蜀に寝返る。

司馬懿はこれに対し機先を制して、早々に孟達を滅ぼす。孟達が裏切ることを事前に予感していたという

記述もある。

西晋王朝の歌に、歌われる一節がこれだ。

司馬懿、引いては西晋が誇る、初めの功績だ。



魏文帝曹丕から遺詔を受けた司馬懿以外は


曹真は長安。

曹休は寿春。

陳羣は洛陽にとどまる。

という扱いになる。


曹真は曹操の養子扱いで、

本来は曹氏ではない。

曹操の身代わりになってなくなった遺児だった。

それを曹操が引き取って、手元で育てたのだ。


虎豹騎出身で、曹丕とも親しい。

日本でいうと、北条氏綱の養子になった、

北条綱成を思い出すような人物だ。


曹休は、曹操の従兄弟の息子らしい。

しかし曹休の父の名は伝わらない。

これが曹一族の不思議なところだ。


227年にそれぞれが出鎮すると、

227年12月に蜀漢諸葛亮(諸葛孔明)の北伐が開始される。


呉との確実な同盟を築き、

南方を押さえ、強い蛮族の兵士を傘下に収める。

諸葛孔明は漢中に本拠を置き、

時機を待った。

曹丕の崩御後、微妙な立場に立った孟達に調略を仕掛ける。孟達は漢中の東にある上庸郡を管理していた。


諸葛孔明の北伐の第一手は、孟達の反乱だった。

なかなか反乱に踏み切らない、煮え切らない孟達を、諸葛孔明は魏に裏切りを伝えて強引に反逆させたという話もある。


しかし孟達の反逆を読んでいた司馬懿は、

襄陽から漢水沿いに昼夜兼行で登り、上庸に進撃する。

通常1ヶ月かかるところを8日でたどり着いた。

城を包囲し早々に陥落、司馬懿は孟達を斬る。

これが司馬懿の将軍、武将としての初の功績であった。


一方で、諸葛孔明はこの第一回北伐は最も手が込んでいた。

孟達の調略、そして趙雲の陽動作戦を行なって、

諸葛孔明自身は、陽平関を出て、祁山に向かった。


歴戦の勇将趙雲が、

漢中から真北に褒斜道を通って渭水盆地を狙う。

長安にいた曹真は当然趙雲が先鋒と思い、

趙雲を迎撃。

しかし諸葛孔明の狙いは、祁山を通って天水郡を中心とした隴右であった。

街亭を押さえて、隴関を閉じてしまえば、

隴右は確保できた。

しかし魏の勇将張郃が速攻で街亭の馬謖を攻撃、

史実通りではあるが、馬謖のまずい戦いにより、

敗北、蜀漢軍は全軍撤退する。



事実は張郃の進撃が功を奏した戦いであった。

これを指示したのは長安まで親征していた

魏明帝曹叡である。事態を危惧した曹叡は、

早々と長安まで来ていた。


諸葛孔明は、趙雲の名声を軸に曹真をうまく誘い込んだ。

しかしその後蕭関を押さえる予定であったであろう、

馬謖を街亭に配したことで敗北した。人選を誤った。


司馬懿や曹真の功績よりも、

魏明帝曹叡のいきなりの名君ぶりが光る。


時に司馬懿49歳。

司馬懿は遅咲きだ。

※2017年1月30日加筆。

226年宛・襄陽方面司令官赴任後、

孫権が荊州から北に魏を攻撃、

司馬懿は襄陽で諸葛謹を撃退する。

これが、顕彰される功績だったのかはわからない。

西晋の歌で最初に称賛されるのは、孟達討滅戦である。