ここからが司馬懿の本領発揮だ。
曹丕の寵臣として、人臣くらいを極めた司馬懿。
曹丕の崩御で終わるはずだった司馬懿のキャリア。
これが、逆に司馬懿の栄達をもたらす。
まず南陽郡宛へ出鎮させられる。
明帝に煙たがられたわけだ。
司馬懿は年齢も47歳で、中央から離れ、悲観もしたであろう。このまま終わるのかと考えてもいいシチュエーションだ。
それも、経験のない将軍職、そして最前線。
普通は嫌がる。嫌がって当然だ。
しかし、
一年経たないうちに、チャンスは訪れる。
上庸郡の孟達が、蜀に寝返る。
司馬懿はこれに対し機先を制して、早々に孟達を滅ぼす。孟達が裏切ることを事前に予感していたという
記述もある。
西晋王朝の歌に、歌われる一節がこれだ。
司馬懿、引いては西晋が誇る、初めの功績だ。
魏文帝曹丕から遺詔を受けた司馬懿以外は
曹真は長安。
曹休は寿春。
陳羣は洛陽にとどまる。
という扱いになる。
曹真は曹操の養子扱いで、
本来は曹氏ではない。
曹操の身代わりになってなくなった遺児だった。
それを曹操が引き取って、手元で育てたのだ。
虎豹騎出身で、曹丕とも親しい。
日本でいうと、北条氏綱の養子になった、
北条綱成を思い出すような人物だ。
曹休は、曹操の従兄弟の息子らしい。
しかし曹休の父の名は伝わらない。
これが曹一族の不思議なところだ。
227年にそれぞれが出鎮すると、
227年12月に蜀漢諸葛亮(諸葛孔明)の北伐が開始される。
呉との確実な同盟を築き、
南方を押さえ、強い蛮族の兵士を傘下に収める。
諸葛孔明は漢中に本拠を置き、
時機を待った。
曹丕の崩御後、微妙な立場に立った孟達に調略を仕掛ける。孟達は漢中の東にある上庸郡を管理していた。
諸葛孔明の北伐の第一手は、孟達の反乱だった。
なかなか反乱に踏み切らない、煮え切らない孟達を、諸葛孔明は魏に裏切りを伝えて強引に反逆させたという話もある。
しかし孟達の反逆を読んでいた司馬懿は、
襄陽から漢水沿いに昼夜兼行で登り、上庸に進撃する。
通常1ヶ月かかるところを8日でたどり着いた。
城を包囲し早々に陥落、司馬懿は孟達を斬る。
これが司馬懿の将軍、武将としての初の功績であった。
一方で、諸葛孔明はこの第一回北伐は最も手が込んでいた。
孟達の調略、そして趙雲の陽動作戦を行なって、
諸葛孔明自身は、陽平関を出て、祁山に向かった。
歴戦の勇将趙雲が、
漢中から真北に褒斜道を通って渭水盆地を狙う。
長安にいた曹真は当然趙雲が先鋒と思い、
趙雲を迎撃。
しかし諸葛孔明の狙いは、祁山を通って天水郡を中心とした隴右であった。
街亭を押さえて、隴関を閉じてしまえば、
隴右は確保できた。
しかし魏の勇将張郃が速攻で街亭の馬謖を攻撃、
史実通りではあるが、馬謖のまずい戦いにより、
敗北、蜀漢軍は全軍撤退する。
事実は張郃の進撃が功を奏した戦いであった。
これを指示したのは長安まで親征していた
魏明帝曹叡である。事態を危惧した曹叡は、
早々と長安まで来ていた。
諸葛孔明は、趙雲の名声を軸に曹真をうまく誘い込んだ。
しかしその後蕭関を押さえる予定であったであろう、
馬謖を街亭に配したことで敗北した。人選を誤った。
司馬懿や曹真の功績よりも、
魏明帝曹叡のいきなりの名君ぶりが光る。
時に司馬懿49歳。
司馬懿は遅咲きだ。
※2017年1月30日加筆。
226年宛・襄陽方面司令官赴任後、
孫権が荊州から北に魏を攻撃、
司馬懿は襄陽で諸葛謹を撃退する。
これが、顕彰される功績だったのかはわからない。
西晋の歌で最初に称賛されるのは、孟達討滅戦である。