岡田英弘氏の説によると、
魏は中都の地を定めて、民を強制移住したという伝えている。
しかしそうではなくて、
魏は中都の地を定めたうえで、中都への移住を許すということにしただけ、
という話がある。
岡田氏の説は
魏をはじめ、蜀・呉の三国は、
強制移住をしたという記述も多く、納得感のある文面だったが、
異なる解釈も紹介する。
(蜀の強制移住・・・
第一次北伐に際して、街亭の戦いに敗れ撤退することになった諸葛孔明。
撤退の際に諸葛孔明は岐山の麓にある西県の4000戸を自国に連れて帰った。)
岡田氏の根拠は、どうも「魏略」のようだ。
※「魏略」・・・三国魏を中心とした歴史書。
作者は魚豢という人物だが、劉表と面識があったぐらいしかわからない。
東晋末南朝宋初の裴松之(河東裴氏。一族に詳細な地図を作った
裴秀がいる。
)が、陳寿が著した「三国志」に注釈を使うときに
引用された。
正史三国志・魏書文帝紀に下記の文がある。
<原文>
魏略曰:改長安、譙、許昌、鄴、洛陽為五都;立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界郯,為中都之地。令天下聽內徙,復五年,後又增其復。
下記が翻訳の事例である。
<現代語訳>
「長安、譙、許昌、鄴、洛陽の5つの県を改めて都とした。また、石の標識を立てて、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は郯(タン)をそれぞれ境界として、その内側を「中都」とし、天下の人々にそのなかに移住することを許したうえ、五年間租税を免除したが、後にその期間は更に延長された」(守屋洋・訳。『正史三國志英傑伝 1 魏書』徳間書店より)
(引用元:http://touryuuuan.blog.jp/archives/1054232924.html)
問題は、
「令天下聽內徙」である。
二人の高名な学者を尊重して考える。
私は、二つの解釈次第で判断が変わると考える。
①「令」の扱い方:
「令」は英語で言うと、使役動詞の「make」のことである。
上記は主語が抜けているが、SVOCの文型になる。
「令」が「make」と基本的に同義なのはわかるが、
この「使役」という意味合いは、どこまでの要素を含むのか。
つまり「強制」という意味を含むのか。
②「聽」の扱い方:
主語は抜かし、「make」と全くイコールの使役動詞として
考えると下記のようになる。
「天下」に「内」に「徙」すを「聽」させた。
となる。
こうなると、「聽」の解釈の仕方が肝になる。
「聽」の意味ですが、下記に羅列する。
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[1] 聞く。聞き入れる。 |
[1] 治める。 |
[1] まかせる。従う。 |
[2] 聞く。詳しく聞く。注意して聞く。 |
[2] しのび。まわしもの。 |
[2] ゆるす。 |
[2] 役所。 |
貼り付け元 <http://kanji.jitenon.jp/kanjil/5850.html>
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ぱっと漢文を読むと、
「聽」は、「ゆるす」の意味でとらえる。
守屋氏の翻訳と同じになるが、
「聞き入れる」という意味を考えると、
今の私では、両論を判断できない。
併記する。
まとめると、
後漢末の動乱で、四つで囲った魏の中心の人口が減った。
魏文帝曹丕は魏の中央部を囲って中都の地とした。
その中都の地に、
①民を強制移住させた、
②民の移住を許し、促した、
かのいずれかをした、ということだ。
曹操の時代に、国境線の民は、
戦禍に巻き込まれたり、敵国に裏切ったりするから、
極力移住をさせるという意向があった。
人口の減少も激しい時代であったから、
曹操はダイナミックに強制移住をさせたかったようだが、
臣下の反対にあって取りやめたりもしている。
これがその後どうなったかは不明である。
強制移住が100%できていたわけではないのは、
諸葛孔明が第一次北伐時に西県から民を強制移住させたことからわかる。
魏は蜀との国境線を岐山の線に想定していた。
魏は本来なら、西県の民は中都の地に強制移住させてでも、
移したかったはずだが、何らかの事情でしなかったか、できなかったのだろう。