歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

司馬懿の「専守防衛」~ダイナミックな戦略の諸葛孔明「後期」北伐~

231年2月から諸葛孔明の第四次北伐が開始される。



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漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。


①祁山経由

②故道・大散関・陳倉経由

③褒斜道・陳倉経由

④褒斜道・五丈原経由

⑤太白山(海抜3767メートル)をかすめての駱谷道経由

⑥子午道・長安へまっすぐ

⑦漢水沿い・魏興郡経由

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ルートは①だ。


これにプラスして、

あまり注目されない事実だが、

第四次北伐で諸葛孔明は、鮮卑の軻比能と連携した。


鮮卑は、南匈奴が後漢はに寄って服属させられた後の

空白地帯オルドスからのモンゴル高原を支配した。

鮮卑の出身地は大興安嶺山脈である。

鮮卑の始めの興隆もたらしたのは檀石槐であったが、

その後死後乱れたが軻比能の登場によって再度

まとまりつつあった。

魏は曹操の息子曹彰が鮮卑を散々破ったという

これもあまり重要視されないエピソードだが、

とはいえ魏は鮮卑は烏丸と異なり、掌握しきれてはいなかった。


諸葛孔明は北進して魏を攻め、

軻比能は南進して魏を攻めた。


230年の夏に曹真が蜀を攻めた翌年、

231年の2月に祁山にある魏の前線基地を包囲して

第四次北伐が開始される。

軻比能は今の銀川市方面から

南に向かって魏を攻めた。


蜀漢は227年から4年連続、4回魏と戦っている。

連戦は国力の劣る蜀漢にとっては不利だ。

回復力の違いで、差が開いてしまう。


231年3月に曹真が死去する。


諸葛孔明は密偵などで曹真の病が重く、

対蜀戦線に復帰しないことを認識していたのであろう。


その状況にプラスして鮮卑軻比能との連携だ。


その前からも連携していたようだが明確ではない。


手堅い諸葛孔明。


南蛮・氐・羌を従え、

鮮卑との連携をする。


諸葛孔明は、

国内は厳しい法治主義によって、

蜀漢をまとめ上げ、

この連戦に耐えうる国づくりをこの短い期間で達成した。


連戦とはいえ、機を見るに敏、というより一切の隙も許さない。

かなり的確な諜報網があったのだろう。


ここで曹真の後任として、

司馬懿が対蜀戦線に赴任する。


司馬懿の視点から歴史を見ると、

諸葛孔明はどうしてもその引き立て役になってしまう。

だが、諸葛孔明の戦いぶりは賞賛すべきもので、

最終目標が達成できなかったからこそ、

私を含め人々の興味関心を強く引く。


南陽郡の宛から、長安に赴任した司馬懿。

早々に出兵。

張郃とともに蜀軍にあたる。


司馬懿・張郃は

それぞれ諸葛孔明・王平(街亭の戦いのときほど馬謖の副官だった)を攻撃するが、撃退される。

その後司馬懿の魏軍は堅守に徹する。

張郃から奇襲などを献言されるも司馬懿は受け入れず。


戦線は膠着するが、

最終的に蜀軍の兵糧切れにより撤退となる。


理由は李厳の虚言である。

兵糧が街道が崩壊したため輸送できないという理由だ。

スルーされる事実だが、

私はこれは魏への戦争反対の吐露だと考える。

諸葛孔明の撤退後、李厳は、

なぜ帰ってきたのかという妙な言い訳をしているし、

諸葛孔明によって庶人に落とされても、

諸葛孔明の死後本当に自分を理解してくれるのは

諸葛孔明だけだったと李厳は悲嘆にくれている。


高位にあった李厳は、

輿論を体現するために、このような虚言を行なったのだ。