歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

諸葛孔明の北伐を守りきった曹真

司馬懿、諸葛孔明の第四次北伐(231年)のときに
死去した曹真の後任となる。

ようやく、司馬懿が具体的に活躍することになる時期に差し掛かる。
時に司馬懿、52歳。
曹操以来の元勲が大勢居並ぶ魏という国は、人材の層が厚いとも言える。

ここに至るまでの経緯について、諸葛孔明の北伐と曹真の応戦とそのその病死までについて
説明する。
魏文帝曹丕の時代から、
渭水盆地の長安に曹真が雍涼州諸軍事として、
江南魏の揚州の寿春に曹休が揚州諸軍事として
それぞれ駐留していた。
(両者とも虎豹騎(曹操親衛隊)の出身で、
若い頃から当然曹丕と接点があった。)

それぞれ蜀と呉に対する備えである。
曹休の呉戦線は、呉の背反により、度々戦いがあった。
一方、蜀戦線は、動きがなく、226年の魏文帝曹丕のの崩御となる。
魏文帝曹丕から、
曹真・陳羣・曹休・司馬懿は遺詔を受けた。
武官の一位が曹真、二位が曹休、
文官の一位が陳羣、二位司馬懿で、
ときは呉と蜀というニ族がはびこる世だから、武官が上位にされたのだろう。
そう考えるとこの順番のすっと頭に入る。

魏明帝曹叡の即位後、曹真は大将軍、曹休は大司馬に就任。
引き続きそれぞれ蜀と呉の戦線にあたるべく、現地へ赴任した。

一方、諸葛孔明は、益州南部に遠征して、南蛮族を平定。
屈強の蛮族を手に入れる。
諸葛孔明は法家思想に立って国内を厳しく法で統治、
劉備の夷陵の戦いの敗戦で動揺した蜀を安定させる。
富国強兵の目処が立った諸葛孔明は、
227年3月に出師の表を劉禅に上程。
宮崎市定氏の言葉を借りれば、流寓政権(ながれもの)であった蜀は、
本来の目的である中原に帰還するという目的をようやく
開始するのである。
(劉備は今の北京の南に当たる涿郡から、各地で臣下得ながら、西南の端にある
蜀にたどり着いたのであった。)
諸葛孔明は、対魏戦略のために、漢中郡に拠点を置く。
劉備の遺詔は丞相諸葛孔明に対する全権移譲であったから、
蜀自体の遷都に近いものがある。
漢中郡の沔陽県に丞相府が置かれた。
蜀が実質の本拠を漢中という前線に置くことで、
魏に対して前傾姿勢を取ることになる。

漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。

①祁山経由
②故道・大散関・陳倉経由
③褒斜道・陳倉経由
④褒斜道・五丈原経由
⑤太白山(海抜3767メートル)をかすめての駱谷道経由
⑥子午道・長安へまっすぐ
⑦漢水沿い・魏興郡経由

※太白山はチャイナプロパーでは最高峰。全土となるともちろんチョモランマになる。

諸葛孔明は第一次北伐を227年に開始する。
使ったルートは、①③⑦。
227年の12月に、曹丕の崩御で動揺していた孟達を調略し反乱させる。
孟達は魏興郡の東・上庸郡を治めていた。
ここは南陽にいた司馬懿が早々に叩き潰す。
また③のルートは趙雲に進撃をさせる。これは囮であった。
諸葛孔明本隊は①のルートを使う。隴の諸地域の寝返りも成功させ、
蕭関を押さえれば勝利だったが、その前に街亭にて馬謖が張郃に敗退。
撤退を余儀なくされた。

魏の曹真は、趙雲の陽動にひっかかり、趙雲に応戦していた。
陽動に引っかかったとは言うが、長安に駐留していて、
初めての蜀からの侵略となれば、目の前に出てくる趙雲を
叩きたいのはやむを得ないだろう。
しかし事態を憂慮していた魏明帝曹叡が長安まで親征していた。
曹叡の指示により張郃を蕭関方面(長安から東に山地があり、蕭関を越えると
天水郡などがある隴に至る)に進撃させたことが、
諸葛孔明の第一次北伐を失敗させた。諸葛孔明は228年の春には撤兵。

やむを得ないとはいえ、
隴を失陥するする寸前まで追い込まれていた曹真は、
魏明帝曹叡の親征の手前、面子を潰されたこともあったのだろう。

曹真は諸葛孔明は早々に再度軍旅を起こす、
それは陳倉を狙うとして、陳倉の守りを固める。

その予想通り、228年の12月に諸葛孔明は第二次北伐を敢行し、
③のルートで一挙に陳倉城を攻める。
ここは渭水盆地の西端で、渭水盆地に侵入するための蜀から見れば入り口であった。
しかし、守りを固めたこと(城壁が二重になっていた)、
城将の郝昭の奮戦もあり、諸葛孔明は陳倉を陥落できず、撤兵。
さらに諸葛孔明は立て続けに
翌229年の春には第三次北伐を敢行。今度は、
再度①のルートで、まずは蜀から見ると、祁山の手前、南にある、
武都と陰平を獲得する。陳式に命じて陥落させた。
ここで、異民族の氐族と羌族を帰順させる。
これは南の南蛮族とは異なり、一部であろうが、
蜀漢にもかなりの数の異民族の兵士が参集していたことがわかる。

呉は南の山中にいた山越族など異民族の鎮圧に長い間手こずっているのと、
比べると、蜀は着実に遂行している。
こういったところにも、諸葛孔明の手堅さ、着実さ、有能さが光る。

とはいえ、諸葛孔明は三度の軍旅を催すも、
対魏に対して、大きな成果を得るに至らなかった。
最も手が込んでいた第一次北伐の失敗が大きい。
後々の歴史を知る我々としては、
この街亭の戦いにおける馬謖の敗戦は、
蜀にとって諸葛孔明にとってそれぞれの運命を決めるものだったとわかる。

魏はこの7ルートの守りを固め、
うまく蜀軍を撃退していた。
しかし、この方面の総責任者曹真は、第一次北伐の時に
面子を潰されている。
第三次北伐を見て、諸葛孔明の手詰まりを感じた
曹真は蜀征伐を上奏。
229年にはクシャーナ朝(インド。カニシカ王の孫の時代から)の入朝があり、
曹真の名声が高まっていた時期でもあった。クシャーナ朝の王は
「親魏大月氏王」を贈られた。
(入朝と言っても、魏を認めて貢納するのみである。)

征蜀の承認を得た曹真は230年8月に実行する。
曹真本隊は③の褒斜谷のルートから
漢中を突く。
張郃が長安から⑥の子午道で
司馬懿は荊州方面から⑦の漢水沿い遡るルートで漢中を攻撃。

曹真にとっては、満を持しての蜀攻略の軍旅であった。
しかしながら、長雨が祟り、行軍できず、
最終的に曹叡の詔勅により撤退。

長雨による滞陣が祟って、曹真はその後病死。

曹真の後任に司馬懿が充てられる。
231年、司馬懿は52歳であった。

諸葛孔明の北伐に対して、
曹真はうまく防戦したと言える。
第一次北伐の大局的な諸葛孔明の戦略に対応が仕切れず、
隴までの進出を許してしまったこと、
第三次北伐で武都。陰平を諸葛孔明に取られたことが
曹真の評価を下げる格好の口実であろうが、
必死の蜀・諸葛孔明をよく撃退したと言えるのではないか。

その証拠か、曹真、晩年の征蜀については、
あまりピックアップされない。