歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

司馬懿の、諸葛孔明第四次北伐撃退を功績と見るか。

地は喪わず、人を喪う。

というのが、第四次北伐に対する司馬懿の評価と私は見る。

功績は功績だが、誇れる功績ではない。

 

 

魏という国家の視点から見ると、

蜀戦線は押され気味である。

 

一旦は隴(天水郡方面から西。長安から見て西に隴関を越えた先。祁山の北側)を失陥しかけた。

結局、祁山以南の武都・陰平両郡は、蜀に奪われる。

 

一方、呉戦線は曹休を中心に、呉を適宜撃退。

220年から揚州諸軍事として揚州の守りにつく。

 

222年・224年・225年と魏文帝曹丕の親征が続く。

魏としても、対呉戦線に注力していた。

 

戦線は一進一退で、戦線は膠着状態。

呉の周魴の偽りの降伏に引っかかった曹休は、

手痛い敗戦をするが、それまでは呉をよく防ぎきった。

 

曹真の能力不足と見るか、

相手が悪かったと見るか。

 

私は、諸葛孔明のダイナミックな戦略が、

功を奏したと考える。

 

呉の孫権を動かして、魏から引き離し、

魏と戦わせる。蜀漢・諸葛孔明がその間行なっていたことといえば、

内政の充実と、南征であった。まさに漁夫の利。

その後国力の充実と綿密な作戦で北伐をまず三度連続で

敢行する。

隴は押さえられなかったものの、祁山の手前までは確保した。

 

呉の攻撃に備え、魏は全軍を差し向けられない。

さらに、

隴・祁山周辺の異民族は諸葛孔明に押さえられ、

魏はこのエリアでは四面楚歌の状態だった。

 

231年3月の曹真死去にともなった司馬懿の

蜀戦線への赴任。

諸葛孔明の第四次北伐に対しての司馬懿がとった

作戦は、専守防衛であった。

もしくは、手の打ちようがなく、立て籠もるほかなかったと見るか。

 

諸葛孔明は祁山を落とせず撤退。

魏は領地の失陥をせずに蜀を撤退させた。

しかし、張郃という歴戦の勇将を失った。

 

「魏略」によると、

司馬懿は諸葛孔明の撤退の際に、

張郃に追撃を命じたとされる。

張郃は司馬懿の方針に反対したが、

司馬懿は受け入れず張郃は止むを得ず追撃した。

張郃は、蜀兵の伏兵に遭い、矢を受けて絶命する。

魏は陳寿「三国志」で張遼・徐晃と並び賞賛された、

歴戦の勇将張郃を失った。

 

「魏略」は、作者や成立年代が不明である。

上記の記述も少々司馬懿に厳しすぎるので、

このような記述が事実としてありうるのかと

疑いたくなったが事実のようだ。

 

この「魏略」は曹魏を扱った歴史書だが、

裴松之が陳寿の「三国志」の注釈をする際に

利用している。

裴松之が生きた、

東晋末南朝宋初には成立していたことになる。

司馬懿のこのようなミスを表立って書ける時代は、

桓温以降の時代ならありうる。

桓温は、

東晋末の、司馬父子(司馬懿・司馬師・司馬昭)に

対して批判的であった。

さらに司馬父子が建てた、成れの果ての

東晋からの禅譲(実態は簒奪)を

狙っていた桓温の時代以降なら、

記述があってもおかしくない。

 

 

そうなると、

この張郃の話は事実ということになる。

司馬懿に厳しいが、ミスで建国の元勲であり高位の名将を

失ったことになる。

 

司馬懿は、諸葛孔明の第四次北伐に対して、

積極的に立て籠もったか、消極的に立て籠もったか、

いずれにしても蜀漢側の内部の乱れに助けられ、

諸葛孔明を撤退させた。

しかし、追撃のミスで張郃を失った。

張郃は車騎将軍で、曹魏では二品という司馬懿と並ぶ

最高位の一人が戦死した。