歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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魏の曹丕の弟排除、曹叡の近臣重視は同じく皇帝権の強化

曹丕が弟を排除したことは
よく批判される。
曹彰・曹植を洛陽に留まるのを許さなかった。

曹叡は皇帝独裁を目指した。
中書監劉放、中書令孫資の二人を中心に、
曹叡は独裁を行なった。

これらは同様の意図だ。

曹丕は、皇帝独裁を志向するため、
それぞれ与党を持っている、特に曹植を排除した。
曹植を立てれば、その与党が暗躍する。
創業当初から魏は内部が乱れることになる。

強い皇帝権の志向が魏のテーマである。

曹叡も同様だ。
そもそも曹丕の時代には、洛陽におらず、
群臣との交流がないのだから、
誰を優遇することもできない。
曹丕遺嘱の臣はいるが、これに頼る頼らないかは、
皇帝次第。
時代の流れとしては、
後漢は、皇帝を取り巻く勢力として、
外戚・宦官・清流派と言われるのちの貴族などが、
権力争いをしてきた。
皇帝は、最も身近にいた宦官を使って、
皇帝権を確保・保持した。
平たく言えば皇帝がもっとしっかりしていれば、
後漢の動乱には繋がらなかった。

曹操には二つの選択肢があった。
漢帝の輔弼か、それとも禅譲か。

最終的には曹丕にそれは託したが、
輔弼をすれば、各勢力の争いは止まず、
中途半端な形にすれば、曹氏はいつかは滅ぼされるだろう。
時代を変えるとすれば、禅譲に踏み切る、
そうするほかない。

禅譲に踏み切れば、
前代の後漢とは別の道を辿らざるを得ない。

外戚を排除する、皇后に権限を持たせない、
宦官を一定の官位以上に就かせない、
前代の轍を踏まないことを考えれば当然である。

行き着くところは皇帝権の強化、
中央集権であって、
最終的には独裁である。

曹丕はそのきっかけを作り、
曹叡はそれをより強化しただけだ。

そもそも、曹丕の兄弟間の争いは、
父曹操が後継者選びに逡巡したからであって、
曹丕の責任ではない。

後継者を長幼の序で決めないのであれば、
親の評価でそれは決まる。
つまりは、実力主義なのだから、
そうしたら、競争が始まる。
手段を選ばない競争であれば、
極端な手段まで出てくるものだ。
隋の煬帝、唐太宗、
北宋太宗、元のフビライ、清雍正帝、
全て武力行使・暗殺などといった極端な手段に出た後継者だ。

それは後継者を確実に定めて置かなかった先代、
大抵は父親の責任である。