歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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三国時代は法家と儒家の思想対立の過渡期

実は三国時代というのは、

この、法家を採るか、儒家を採るかという

歴史的な思想対立の過渡期にある。

 

この振幅、振り幅が政治体制を決める。

春秋時代末期から、

隋の煬帝が登場するまで、

この対立は続く。

 

わかりやすく言うと、

 

秦の始皇帝は、法家思想に立った秦帝国を

作ったが、

その厳格さで国が滅びた。

 

前漢は、その間を採った。

高祖劉邦・宣帝の事例が有名だ。

 

前漢末期、儒家思想重視の背景から、

王莽が現れる。

王莽は新を建国し、周の古例に戻す。

しかし時代にそぐわず社会を混乱させ、

早々に滅亡した。

 

王莽は儒家思想の権化と言っていい存在であった。

現代から見ると何か滑稽な復古思想の人物に思える。

しかし、

その恩を受けた漢書の著者班固をはじめ、

実は士大夫層には王莽は支持・賞賛された。

 

当時の士大夫層の教養というのは、

周王朝の古例が前提で、

それに沿うように教養を積んでいた。

それが王道というわけである。

 

間接的に王莽を打倒した後漢光武帝劉秀も、

その時代の潮流に合わせて、

官吏の登用法は、儒家思想に則った。

 

当時の官吏登用法は、

郷挙里選である。

この郷挙里選は、前漢武帝の時、

董仲舒の献言によって始まった。

それが後漢になると、

孝廉という儒教的教養と素行を兼ね備えているかを

重視するようになった。

現代の感覚だとこれは実力主義の採用ではない。

さらに、これは地方の有力な豪族の力が影響する。

地方それぞれが官吏候補者を推薦するというのが、

郷挙里選である。

どうしても地方の有力者の影響が及ぶ。

その子弟・与党が優先される。

儒教的素養を持っていると言い切ってしまえば、

それまでである。

逆説的だが推薦された者は、

儒教的教養に従って行動すれば、

推薦してくれた地方の有力者に恩返しをすることになる。

 

親族を優遇するようになる。

実力主義ではなく。

 

地縁・血縁優先になるのが、儒家思想だ。

 

これで後漢の皇帝は孤立無援になった。

それぞれがそれぞれの与党を作るのである。

 

皇帝がそれに対抗するために、皇帝の使用人・宦官を

活用する。

宦官は全く素養がないので、利己主義に奔り、

腐敗する。

そうして、宦官とともに皇帝も腐敗した。

 

後漢は外戚と宦官、そして地方の有力者、

の三者によって、それぞれ食い散らかされ、

滅びた。

 

儒家思想は、分権を促すのである。

 

各人の高い意識を要求し、

それに基づいて時の王者(秦以降は皇帝)を

支える。

しかしその各人が腐敗したら、

皇帝はどうしようもない。

 

皇帝を的確に輔弼してくれる、

管仲・楽毅のような名臣の登場をただ待つのみだ。

 

皇帝は、官吏登用に実は結びついていないのである。

 

となれば、

法家と儒家の間を取るほかない。

 

その事例は、

高祖劉邦と、より具体的な事例をもつ前漢の宣帝

がベンチマークとなる。