歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

蜀科(蜀漢の法)の制定~諸葛孔明 厳しい法治主義 法家思想に立つ~

後世、蜀科と言われる、法制度を蜀漢は制定している。

建国早々に着手、起草、制定している。

これは、見逃されがちだが重要な事実だ。

蜀漢が建国前から法家思想に立っていた政権であることを

立証している。

 

携わったのは、

諸葛亮、法正、伊籍、劉巴、李厳などである。

諸葛孔明が中心人物である。

蜀科の詳細は不明である。

劉備の入蜀後取り掛かったのは間違いなく、

少なくとも、陳羣起草の魏の法制度・魏律が施行された

229年よりは早くに制定されたであろう。

法正は220年、劉巴は223年に死去している。

 

魏は、法家思想に振り切れず、

意見の統一が遅れた。

儒家思想を強く受け継ぐいわば士大夫層は、

魏のある中原に当然で最も多くいた。

魏文帝曹丕の時、

刑罰の明確化ということで、

死刑と鞭打ち刑の間に、肉刑、すなわち

足の筋を切ったり、鼻を削ぎ落とすといった

戦国時代によく出てくる刑罰を復活するかどうかの

議論があった。

陳羣は賛成で、

曹丕も内心賛成であった。

法を犯したら、国家、皇帝としては看過しないという

統治の存在感を見せるため、肉刑の復活を

望んだ。それは、すなわち皇帝権の強化につながる。

 

しかし、王朗などは反対した。

寛容を持って統治すべしという後漢までの考え方を主張し、

肉刑の復活という刑罰の厳格化に反対した。

魏はこれにより、後漢よりは法家思想に寄るものの、

中途半端なものに終わる。

私はマクロ的視点では、これも魏の滅亡の一因になったと

考える。

 

蜀科の制定は、

蜀漢の国家としてのまとまりをもたらす。

 

内容は非常に厳しい、厳畯なものであったが、

公正公平なものであり、民から怨嗟の声が上がることはなかった。

 

厳格な政治があった場合には、寛容を用い、

政治が弛緩していた場合には、精緻な法体系で統治する。

 

劉備の入蜀前の、

劉焉・劉璋を、弛んだ政治として批判にし、

法家思想に則った政治を行なった。

 

諸葛孔明は、

商鞅・韓非子、前漢武帝期の董仲舒を

ベンチマークしたと現代中国では分析されている。

南中郡の南蛮征伐などは、

まさに儒家的な対処を取る諸葛孔明。

法家思想を重視したとはいえ、

振り切ってはいない。

となると、

董仲舒の後を受けて

法家と儒家の両方を

うまく活用した前漢中興の祖宣帝(在位前74年ー48年)と

同じスタンスで、諸葛孔明は国家統治に臨んだのだ。

 

法家のスタンスで対処した諸葛孔明の事例を

4点下記に羅列する。

①入蜀時、法律を厳しくする。

高祖劉邦の古例の逆を行く。高祖劉邦は、

関中を占拠した時に、三つの法律だけを施行した。

その前の秦の支配が厳しかったからだ。

 

泣いて馬謖を斬る 自身の右将軍降格

→これについては、自身に対して甘いという意見もある。

しかしながら、

事実上のトップである諸葛孔明が、自分自身で処罰をしたことだけでも

特筆すべきだろう。

秦の始皇帝は、自身は法の例外においた。

唐の徳宗は、己を罰する詔なるものを出しているが、

それは自身が窮したため、やむを得ず出したものだった。

 

李厳の厳罰→兵糧輸送できないという虚言に対して庶民に落とすという処罰

 

諸葛孔明、鞭打ち20以上の処罰を自身で決裁

(司馬懿、蜀漢の使者から知る)

→中央集権化ができていたことがわかる。

また、このようなことまで一国の宰相が決裁するということは、

組織化まで追いつかず、また人材育成も追いつかなかったのだろう。諸葛孔明はこれほどの多忙ゆえに早々に死ぬと

司馬懿に分析される。

そして、それは現実になる。