歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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漢中に戻るつもりはない~諸葛孔明第五次北伐~

234年2月褒斜道を通って魏へ出兵。

ルートは④である。
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漢中から魏を攻撃するには以下の7つのルートがある。

①祁山経由
②故道・大散関・陳倉経由
③褒斜道・陳倉経由
④褒斜道・五丈原経由
⑤太白山(海抜3767メートル)をかすめての駱谷道経由
⑥子午道・長安へまっすぐ
⑦漢水沿い・魏興郡経由
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漢中から真っ直ぐ北に関中に進入する。

私はこの第五次北伐は諸葛孔明にとって、
まさに決死の出兵、乾坤一擲の大勝負と主張する。

理由を5点挙げたい。

①五丈原方面のみに蜀漢の全兵力10万人を動員。(「晋書」宣帝紀)

これは蜀漢が動員できる全兵士と言っていい。
蜀滅亡の年263年には、
94万人28万戸(出典「通典・食貨七」)
という記述がある。
兵士は、基本的に人口の10分の1動員できると言われる。
従軍できるのは基本的に男性であり、
また従軍適正年齢というのもある。

②諸葛孔明、事実上初めての関中布陣
第二次北伐のとき、陳倉城を攻めた時には、
関中(渭水盆地)のそばまで来ていたが、
進入したのは初めて。

③さらに屯田。半年にわたる。
漢中に帰らないという決意と私は見る。
全兵力をここ五丈原に投下し、そして結果として
半年滞陣した。屯田するということは、長期戦も辞さないということである。
結果的に、会戦をすることはできなかったが、
この半年間、
決戦を主張するのが魏延しか出てこないというのも凄い。
一般的には将校の反乱や兵士の逃亡などが起こって当然だ。
国内を法によってまとめ切るとともに、
諸葛孔明の恩徳が国内に広がっていたのだろう。
諸葛孔明を中心に蜀漢はまとまっている。

④孫権の最後の合肥親征。
三国鼎立後、初の親征は曹丕の崩御の時。226年。
諸葛孔明の北伐に合わせての出兵で、
親征するのは初めて。
当然、この北伐に合わせて出兵をしてもらうよう、
諸葛孔明は呉に働きかけたであろう。
孫権の親征を求めたかどうか定かではないが、
孫権の自身が必ず成果が出ると確信しての親征であることは
間違いない。

234年5月呉の孫権親征。
諸葛孔明の出兵三カ月後である。
合肥を攻める。
度々名前の挙がる合肥だが、
孫権にとって最後の合肥攻撃である。
これ以後252年の崩御まで合肥を攻めることはなかった

⑤蜀漢の国力を3年蓄えた。
今まで連戦していたのに、
三年待った。
蜀漢は、
227年の12月に魏に対して軍旅を起こしてから、
231年まで5年連続魏と干戈を交えている。
李厳など国内の見えない北伐反対派を押さえ、
国力を増強し、満を持しての北伐。

231年の時点で、
諸葛孔明は51歳。
234年で54歳だ。
この時代、50歳を超えれば、誰しも自身の寿命を
意識する。

最高権力者である諸葛孔明が、
敵地にて半年間滞陣。それも蜀漢の全兵力とともに。
決戦をして負ければ、国は滅びる。

孫権も担ぎ出し、やれることはやった。

魏に孟達のような乱れがあればよかったが、

いつも思うが、
諸葛孔明はやれることはやりきっての
北伐となる。打つ手は打ち切っている。

負けるつもりはなかった。
まさに満を持して。

引用元:中国歴史地図集 第3冊