魏にとっては、
二方面から攻撃を受けることになる。
呉が合肥と襄陽を攻撃、蜀が五丈原から長安を伺う形。
東西の端に攻撃を受ける形となる。
軍勢を三方面に分けなくてはならない。
これに対して、魏明帝曹叡は下記を親裁した。
魏明帝曹叡が全て決めたことを強調したい。
魏明帝曹叡は親政を望み、実行している。
下記の二つの大枠の方針を親裁。
①蜀の諸葛孔明に対しては、司馬懿が対応。
曹叡は司馬懿に対して、勅命で、
「専守防衛。決して戦うな」と命令している。
司馬懿はこれを忠実に半年間守り切った。
一般的には、司馬懿が諸葛孔明と戦おうとしなかった、
卑怯者だ、諸葛孔明は司馬懿と戦えれば勝てたのに、
という印象があるが、戦うなと命じたのは、曹叡である。
②魏明帝曹叡自身は、対呉戦線に親征する。
一方で、今回は呉に対して親征することに。
第一次北伐のときは、呉の出兵はなかったが、
曹叡は長安まで親征している。
満寵が都督揚州諸軍事である。
228年に曹休が石亭の戦いの後死去し、
その後任として赴任した。
※満寵は歴史を俯瞰してみると、大きな業績を残している。
230年もしくは233年どちらかに、
合肥の城を、移転させた。
合肥旧城→合肥新城への移転。
合肥旧城は揚州の鎮守府寿春から遠く、
また江湖から近いため、呉が水軍を活用して、
高い動員力と機動性が実現、容易に攻撃を受けやすい場所にあった。
それを北西に移した。これ以後、岸から遠く、寿春から
近い合肥新城は堅守を誇る城となった。
司馬懿は、対蜀戦線を担当。
漢中から褒斜道を通って秦嶺山脈をまっすぐ越えてきた諸葛孔明。
関中(渭水盆地)に出てすぐの五丈原に布陣。
司馬懿はそこから北に渭水を挟んだ向こう岸に布陣する。
五丈原を仰ぎ見る形となる。
このときの逸話として、
司馬懿は諸葛孔明を攻撃したかったという話がよくある。
魏明帝曹叡に上奏するも退けられ、絶対にしないように
という勅命を伝える。
明帝は、勅使として辛毗を派遣し、勅命に従うよう厳命している。
それでも司馬懿は、諸葛孔明の挑発もあって、攻撃をしたかったのに、
果たせなかったとしている。
しかし、これは事実ではないと私は考える。
理由は二点ある。
①戦略面:
そもそもここで司馬懿が蜀と戦ったら、三方向二勢力で
敵と戦うことになる。蜀と膠着状態にすれば、
二方向一勢力との戦いで済む。
それがわからない司馬懿ではない。
この攻撃をしたいという司馬懿の「ふり」は、
諸将兵卒をなだめるため士気を維持するための、
「芝居」だと考える。6ヵ月間動かない敵を見張り続けるのは
堪える。一般的に考えて、
6か月間敵と向き合って戦わないというのは大変難しい。
指揮官が臆病だと兵卒に謗られるし、
長滞陣に対する士気の低下は必ず起こる。
この対策ではなかったか。
勅使辛毗が来たのも、
司馬懿の要請かもしれない。
②思考・性格面:
そもそも司馬懿は、魏皇帝に対して忠実だ。
晩年のクーデターがあるため、佞臣のようなイメージがある。
が、曹丕に認められ、側近として功績も挙げてきた。
建国の元勲の一人としての自負があってもおかしくはない。
建国の元勲として忠臣でありたいという思いは当然だ。
また、
父の厳しい訓育を受け、司馬八達の一人である。
儒家的思想を徹底的に受け、上下の別をはっきりとする
文化を持っている。
父司馬防の指示がなければ、座ることも許されなかった。
こうした教育を受けて大成した人間が司馬懿だ。
そういった人間は、
この状況下で勅命に反する行動を取らない。
また戦略的に見て敵を利するような行為をするほど、
司馬懿は愚かではない。
つぶさに大局的に戦況を聞いていたはずでもある。
諸葛孔明と2度目の直接対陣。
まだ2度目でこれが最後である。
二回しかないのである。
前回は急遽曹真の代役だった。曹真の死去が理由。
曹真総大将の第一次北伐の孟達討滅作戦、
曹真総大将の対蜀攻略戦(結局道半ばの未遂)
を入れれば4度だが、後者の二回は総大将ではない。
直接とはいえない。
この第五次北伐が、
二度目にして最後の司馬懿対諸葛孔明の戦いである。