歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

魏明帝曹叡は自身の危篤に際し折衷案の後継体制しか選べなかった。

突然の発病。魏明帝曹叡は死期を悟り、

後継体制に悩む。

皇帝独裁へ舵を切った皇帝曹叡。

 

信頼できるのは、秘書に近い役割の、

散騎常侍の孫資と劉放のみ。

宗族も臣下も、信頼できるものが非常に少ない。

※散騎常侍・・・

皇帝の側近として詔など皇帝の指示を伝達する。

前漢は散騎常侍と中常侍の並列で存在。

後漢では中常侍のみになる。

魏では、中常侍を散騎常侍に合わせ、散騎常侍のみとなる。

後漢期に権力を振るった宦官はみな中常侍であった。

その中常侍と同列の散騎常侍という官職の位置づけは

イメージしやすいのではないか。

 

239年の魏明帝曹叡の崩御の時、

(実際に崩御したのは238年の年末のようだ。

公になったのが239年1月はじめ。)

魏には司馬懿以上の功臣はすでに誰もいなかった。

司馬懿は当時60歳。

 

次点は満寵。

満寵は司馬懿の指揮の下、呉と戦ったこともあり、

序列は明確。

 

魏文帝曹丕の遺詔を受けた4人のうち、

司馬懿以外の曹真・陳羣・曹休はそれぞれ死去。

 

曹真は231年、

陳羣は236年、

曹休は228年に、

死去している。

 

曹真は、対蜀戦線の総司令官、

陳羣は、文官のトップ、

曹休は、対呉戦線の総司令官だった。

 

曹休の後継者は、

満寵。合肥の旧城から新城への移転で、

長期的な視点だと、非常に大きな功績を挙げている。

 

 

 

晩年は独裁傾向の強まった曹叡。

皇帝への権力集中が良くも悪くもうまくいったせいか、

魏文帝曹丕時代からの重臣、司馬懿以外に

力のある臣下がいない。

司馬懿は、血筋、功績、忠誠心の点から、

トップに立っていた。

共に曹丕から遺詔を受けた曹真、陳羣、曹休の三名は、

既に世を去っている。

 

悩む曹叡。

宗族に任せるか、

それとも父以来の重臣司馬懿に任せるか。

 

本来は父帝曹丕の方針に反し、

宗族(皇帝の一族)をメインに後を託すつもりだった。

燕王曹宇

(曹叡の従兄弟。曹叡と年齢が近かったようだ。

曹操の子で、曹丕の弟。曹宇の子が魏最後の皇帝元帝曹奐)を中心に、

曹肇(曹休の子)、

曹爽(曹真の子)、

夏侯献(出自不明。曹操の父曹嵩は元々夏侯氏)、

秦朗(曹操の養子。側室の連れ子。奇妙な人物で、佞臣扱いだが、

曹叡に信頼された。また鮮卑討伐を大将として成功させている。)

の5名である。

 

しかし側近の孫資・劉放の反対により、

曹叡の考えは二転三転する。

曹宇が自信がなさそうであったとか、

秦朗の不遜な態度に孫資・劉放が不安を覚えたなど諸説ある。

 

結局折衷案に落ちつく曹叡。

宗族の曹爽と、功臣の司馬懿に、遺詔を託すことになった。