歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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曹爽・司馬懿の対立のきっかけは、興勢の役(征蜀)


曹爽・司馬懿の対立のきっかけは、興勢の役(244年)からである。
それまで二人は共生できていた。

曹叡崩御から、対立のきっかけとなる、興勢の役までの流れを記す。

司馬懿は対呉戦線の整備に乗り出す。

曹爽は対蜀戦線を司馬懿から貰い受けたのだろうか。
司馬懿はこのタイミングで対蜀戦線から離れている。
司馬懿の後任の雍涼州諸軍事は趙儼(チョウゲン。171年ー245年)。
この人は副官としての経歴が長い。
武功派の名将をうまくなだめて、
中央の君主の意向に沿う行動を上手く取らせている。

漢中で夏侯淵が劉備に討たれた時に、張郃と連動して
事態を収拾した。
関羽が樊城の曹仁を攻めたとき、徐晃の副将として
援軍。
孫権の荊州公安を攻撃した為
撤退した関羽を追撃したい曹仁を引き止めた。
「化け物のような関羽をこのまま放置した方が
孫権に対する牽制になる。」

このような適切な対応をそつなくこなす、バランサーの
趙儼が司馬懿の後任であった。
231年から239年まで8年ちょっとの間、
雍涼州諸軍事であった司馬懿の後任として、
そつなく後任として軍を掌握したのだと思われる。

曹爽は当初は司馬懿に父のように仕えた。
謙虚に接していたようだ。

この後対呉戦線が緊張する。
司馬懿は対呉戦線に取り掛かる。


241年 芍陂の役(しゃくひのえき。晋書のみの記載) 
では、荊州戦線の樊城救援に司馬懿が出兵している。
揚州戦線は、今回は合肥ではなく寿春への急襲。
合肥に軍勢を集めていた魏は当初苦戦したが、
王淩(172年ー252年。太原王氏。
呂布を説き伏せ董卓を殺害させた王允の甥。)が救援し、呉を撤退させる。


想定するにこの戦いを受けて、
241年前後に
司馬懿は、
鄧艾の進言「済河論」に基づいて、
洛陽から寿春方面の呉に対する備えを整備している。
・淮北における大規模な軍屯の設置
・複数の運河を開鑿
・洛陽から寿春方面まで穀物貯蔵庫を複数並設
これが後年活きる。
農政・軍事に優れた鄧艾を中央に登用したのは司馬懿である。

⑩243年 諸葛恪の寿春を伺う出兵に対して、盧江方面まで出兵して迎撃。
撃退する。

この後、
対蜀の話が持ち上がる。

背景は三点だ。
①宗族の不満
②法家政治の反動
③曹爽自身の焦り

①②が原因となって、その①②の事象の中心宗族が、
曹爽を煽った。これが対蜀遠征を引き起こしたと私は見る。

皇帝専制の反動は大きい。
宗族は隅に追いやられ、
いや事実上の軟禁状態と言っていいほどの状況だった。
それが、曹叡の崩御で緩やかになった。
しかし、皇帝権の代行者としての司馬懿が、
がっつり生真面目に政治を執行するのは都合が悪い。
そもそもそれでは、世の中が窮屈すぎる。

曹叡の崩御により、
宗族は力を取り戻し、
皇帝権の代行をするのは司馬懿に対する反発が強くなる。

司馬懿に対する反発をまとめる中心は、
どうしても司馬懿とともに遺詔を受けた曹爽ならざるを得ない。
曹爽は遺詔を受けたということもあるが、その上宗族である。
実績としては宗族第1位の曹真息子だ。

皇帝権が弱まっただけなら、皇帝に対する反発になるが、
皇帝が事実上の不在のため、その代行者司馬懿に対する反発になった。
司馬懿が魏建国以来やってきたやり方をやればやるほど、
国内が反発するという枠組みだ。

宗族たちは、また武ではなく、文の才能を継いでいた。
文武両道であろうとした、曹操をはじめ曹丕・曹叡・曹植などと
異なり、文の部分だけを継いでいたため、
武にはしるように見える司馬懿が煙たかった。

不満を持つ宗族。
宗族は、自分たちが頭領として担ぐべき、
曹爽を煽った。

曹爽は元々おっとりした性格、いわば貴公子であった。
曹叡から気に入られ、それが遺詔を託すことになる。
曹叡は基本的に直言は好まない。
基本的に曹叡自身の勅裁を好む。
後付けのような気もするが、
曹叡即位直後に魏明帝曹叡に謁見した劉曄の評価が下記である。
「秦始皇や漢武の風を持つが、この2人にはわずかに及ばない」
秦の始皇帝、漢の武帝は、自身の勅裁を好み、
武力で他国を滅ぼした皇帝である。
これに近いと言っている。また、宮殿の造営など大規模土木建築に
対する皮肉も入っている気がする。

曹叡にとって、曹爽は特に害のない宗族であった。
本来、司馬懿のように曹叡の言うことを聞く、有能な者が
皇帝の治世には必要だが、
こうした曹爽のような存在も必要である。
なお、曹叡という皇帝は、非常に苛烈な皇帝である。
例えば寵愛の去った毛皇后に死を賜ったりする。
母である甄氏を死に追いやった義理の母に当たる郭皇后にも死を賜っている。
父曹丕に負けず劣らずである。
曹丕は、
皇后甄氏に死を賜る、
鮑勛の諫言に腹を立て誅殺、
夏侯尚が宗族の妻ではなく妾を寵愛するのでその妾を殺す
などしている。
独裁君主にありがちな事例だ。

曹爽がこうした苛烈な曹叡に対して、阿諛追従をしていたとは言わないし、
そういった記述もない。
ただ、曹叡から即位前から寵愛されていたようで、
即位後は散騎常侍になったとのことだ。曹叡側近の孫資・劉放と同じ
官職に就く。しかし彼らは側近として曹叡を補佐するが、
曹爽の記述はない。
すなわち功績がないのだ。
曹爽は曹叡から特に警戒されるポイントはなかったのだろう。
曹真の子であるだけだ。

そうした、曹真の子で貴公子の曹爽は、
初めは司馬懿に対して謙虚に父に仕えるようにした。

すなわち、素直な人だったのだろう。
凡庸な人だった。

しかし、正始の音という時代がやってきて、
曹爽を取り巻く情勢が変わる。

曹叡から何晏をはじめとした浮華の士とされた人物が
表舞台に出てくる。
それらが曹爽と結びつく。

世の風潮から遠ざかる司馬懿。

何晏(『論語集解』・『老子道徳論』の著者。後漢の大将軍何進の孫。曹操の養子)
を中心としたメンバーが曹爽を煽った。唆した。
義理の弟である夏侯玄(父は夏侯尚。母は曹真の妹。この曹真の妹ではなく愛妾を寵愛したため、曹丕はこの愛妾を殺した。曹爽は従兄弟)も関わった。

司馬懿に対抗するために、
対蜀遠征の軍を起こして、
蜀を叩く。

父曹真は、230年に対蜀戦で長雨に祟られ失敗した。
長雨で体調を崩したのか、その後死去している。
曹爽一族にとっても因縁のある蜀。

それもあって踏み切りやすかったのであろう。

しかし、司馬懿に反対された。

宗族の不満、法家政治の反動が、
曹爽を盛り立てようとする。

今まで通りの政治を行う司馬懿への反発は、
曹爽に軍功の必要性を感じさせた。

そのための征蜀。
しかし反対された。

そして結果、失敗する。
興勢の役の失敗で焦る曹爽。

司馬懿と曹爽は決裂する。

それは致し方のないことであった。

■244年 興勢の役で 曹爽 対蜀征討 失敗に終わる。

そして、
■249年 高平陵の変(正始政変) 司馬懿一族が曹爽一族を打倒する。

▪️251年 王淩の乱の鎮圧
その後同年死去。