上記は司馬懿が将軍として戦ったエリアを丸で囲ったものだ。
司馬懿は対呉戦線の揚州方面のみ戦歴がない。
だから、司馬師以降揚州のみ反乱が起きる。他は掌握できていたのだ。
揚州は、曹休→満寵→王淩→諸葛誕→毌丘倹→諸葛誕が都督揚州諸軍事である。
王淩以降の3名は皆司馬氏打倒の兵を挙げているのが特徴だ。
司馬懿の幅広い軍歴があった。
それは西晋移譲期の軍掌握に功を奏した。
関中方面は都督雍涼州諸軍事として約8年間、
荊州方面は都督荊豫州諸軍事として約4年間、
としてそれぞれ軍を掌握していた。
着実にこの12年間軍功を挙げている。
軍全体に司馬懿は恩徳を確実に施していたのだろう。
揚州以外は掌握できていた。
揚州の掌握だけ時間が掛かった。
反乱がこの揚州方面に集中するのはこのためだ。
だから、後年西晋が呉を滅ぼすのも、
時間が掛かった。
蜀漢を263年から滅ぼしたのち17年後の280年にようやく
呉を滅ぼすのである。