歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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244年曹爽の征蜀(興勢の役)に至るまでの経緯

興勢の役の名前は、

主戦場が蜀の漢中郡にある興勢山(興勢坂)であったためである。

 

蜀漢の執政で最高権力者の蒋琬が漢中から涪城に移動した。

漢中の駐留軍勢が減ったので、曹爽は駱谷道を使って攻めた。

しかし蜀漢の王平が興勢山で陣を敷き迎撃。曹爽はそれ以上攻め込むことができず撤退した。

 

大将軍曹爽一派と征西将軍都督雍涼州諸軍事の夏侯玄、そして夏侯玄の副将司馬昭などは、

駱谷道を使って、漢中に進撃する。

しかし、蜀漢側は手際よく防戦。

王平の状況を的確に見定めた対応と、

病床の蒋琬に代わって、費禕が手際よく漢中に救援が利いた。

曹爽は興勢山の王平に釘付けにされる。

打ち手もないまま、費禕たちの増援も到着。

曹爽の側近がこのまま滞陣を続けるか、撤退かで揉める。

司馬昭の撤退進言により撤退を決めたが、

既に蜀漢勢が多数結集していたため、

追撃も激しく散々な結果に終わった。

補給に氐族・羌族の異民族を使っていたが、

この戦役で犠牲を出す。これは数年後の反乱につながる。

 

興勢の役に至るまでの経緯を下記に記したい。

曹爽が征蜀の兵を起こそうと考えた理由は二つある。

①司馬懿との対抗上曹爽自身軍功を挙げて権威を高めたかった。

その背景は、現状に不満を持つ宗族の後押し、曹叡までの法家政治の反動、

そして、曹叡崩御後も軍功を挙げる司馬懿に対する曹爽自身の焦りだ。

 

②蜀の漢中の守りが薄くなった。

蜀漢の最高権力者で、諸葛亮の後継者蒋琬は、243年蜀の涪城

(フジョウ。綿竹関の南。成都の北東)に駐屯地を下げた。

そのことにより漢中の駐在兵数が減った。これがきっかけになった。

蒋琬は長らく病気であったようで、そのため駐屯地を漢中から涪城へ下げたと思われる。

北方への対応は姜維を雍州刺史に任じ当たらせることにした。

漢中の防御は王平に任せる。

漢中には三万人の駐在しかなくなった。

元々諸葛亮の北伐時の動員数は10万人だったので、7万人が涪城に移った概算だ。

蒋琬は、諸葛亮の北伐失敗したことから、漢中から漢水沿いに東に向かって、

進撃をしようと考えていた。

呉の魏に対する攻撃に連携して、東に魏興や上庸を攻め、最終的には襄陽までを

見据えた作戦を持っていた。

しかし実行に移すことはできなかった。

蒋琬自身が病気であること、

また漢水を下ってしまうと、

撤退時には高い標高差を登る、また漢水を遡ることになり、撤退が著しく難航することから、

周囲の反対も大きく実行に移せなかった。

 

蒋琬は忸怩たる思いもありながら、自身の病もあって、

政務を涪城で執ることにしたのだろう。

 

そこを曹爽は絶好のタイミングとみて、

征蜀の兵を起こそうとした。

 

まず手始めに、曹爽(?ー249年)は、

征蜀に際し、

雍涼州諸軍事を、趙儼から自身の従兄弟にあたる夏侯玄に変える。

趙儼は征蜀の翌245年に死去していることから、

病気ということもあるかもしれない。

しかし、これは曹爽の司馬懿に対する挑戦である。

そもそも、周知の通り、対蜀戦線を統括する

雍涼州諸軍事は司馬懿が長年任命されていた。

曹叡の崩御で洛陽に変える必要から、

後任は的確なバランサーの趙儼が任命されてきた。

 

それを従兄弟の夏侯玄(209年ー254年)に変えたのである。

 

少しここで、司馬懿・曹爽・夏侯玄の関係について、

説明する必要がある。

繰り返しになるが、

夏侯玄は曹爽の従兄弟である。

曹爽の父の曹真の妹が長年、夏侯玄の母である。

なお、夏侯玄の二歳下の妹夏侯徽(211年ー234年)が、

司馬懿の嫡男司馬師の最初の正妻である。

夏侯徽は司馬師に毒殺されたというが信じがたい。

現実的にそれはあり得ないし、そういった司馬師に不都合な

ことが表に出ている時点で怪しい。

司馬一族の中で、特に司馬師・司馬昭の事績で、

彼らに不利になる内容は疑ってかかる必要がある。

特に司馬昭・司馬昭は中国史上悪人として描かれるからだ。

(蜀漢正当論のためだ。)

 

ともかく、夏侯玄は司馬一族と姻戚関係だったが、

征蜀の直前には、夏侯徽死去により、姻戚関係は切れていた。

 

夏侯玄は、

・曹爽と血の繋がりがある。

・夏侯玄は夏侯氏なので宗族としての繋がりがある

の2点から曹爽一派である。

その夏侯玄を、元々司馬懿のテリトリーの

雍涼州諸軍事に当てたのだ。

これは領域侵犯と見られてもおかしくはない。

 

これが曹爽と司馬懿が具体的に対立するようになる、

最初の事象だ。

 

曹爽にも司馬懿にも気を配れる、

趙儼を外す、もしくは病気になった、後任を

曹爽は自派の夏侯玄にした。

 

その上で、征蜀を動議する。

 

曹爽は曹真が司馬懿の前任者として対蜀戦線を統括していた

以外に何の関わりもない。

司馬懿は強兵を率いた諸葛亮を根気よく退けた。

雍涼州諸軍事としてよく軍兵をまとめていたからできることであって、

(つまり軍兵・将校から司馬懿は強い支持を受けていたのである。

238年の遼東遠征は、この雍涼州の軍兵を率いた可能性が高い。)

軍功のない曹爽が手出しをできるはずがない。

 

にも関わらずの、

征蜀動議。

 

曹爽は、司馬懿ではなく自分が指揮すれば、

蜀など破ることができると言っているのと同様だ。

 

司馬懿は、確かに対蜀戦線をよくまとめていたが、

華々しい軍功があるわけではない。

粘り強く守ったという地味な軍功だけだ。

 

それを曹爽は当てこすった。

当時六十五歳の老臣司馬懿は、

子供と同じ世代と思われる曹爽から

恥辱を受けたことになる。

 

当然、司馬懿は反対することになる。

 

対蜀分析として、司馬懿は征蜀はまだ時期尚早と

いうほかない。

また司馬懿が思い入れがあり、自身の支持基盤になっている、

雍涼州の軍兵を損なうことは面白くはないだろう。

 

しかし、結局曹爽に押し切られた司馬懿は、

征蜀の軍に次男の司馬昭を従軍させることになった。

(夏侯玄の副将として)

蜀分析に関して一抹の不安があり、

万が一成功した際のリスクヘッジであろう。

 

しかし、魏は蜀に敗退。

曹爽はこれにより権威を落とすことになる。

そして、この一件は、曹爽と司馬懿の間に、

大きな亀裂を生む結果となる。

 

 

 

 

 

※駱谷道

長安の西50キロあたりから標高3771メートルの太白山の手前を南下し、

漢中東方40キロ成固に至る。

244年に興勢の役で曹爽・夏侯玄・郭淮ら10余万の魏軍がこの道を通り漢中へと侵攻。

 

王平が駱谷道中の興勢山、黄金谷の進路を塞いでそれ以上、敵軍の侵入を許さず

魏を撃退。

下記写真の太白山は3771.2メートルの標高。秦嶺山脈の最高峰。

チャイナプロパーでの最高峰でもある。

長江と黄河二つの水系の分水嶺。

駱谷道