実は歴史的な選択肢を取った司馬懿。
皇帝という概念が産まれてから初めて、
功臣が武力クーデターで権臣となった事例となった。
これが司馬懿であり、正始政変である。
興勢の役の敗戦により曹爽と対立。
実態は曹爽が保身の為に司馬懿を攻撃するほかなくなった。
●際どい立場の司馬懿
魏を、蜀と呉に対して圧倒的優位を立たせることに成功した司馬懿は、
伍子胥
范蠡
王翦
韓信
と似たような立場になった。
忠臣を貫き殺されるか(伍子胥)、
逃げ出すか(范蠡 走狗死して狡兎烹らる)、
へりくだり続け引退するか(王翦)、
座して殺されるか(韓信)。
司馬懿は皇帝と対立しているわけではない。
しかし皇帝が幼年のため、曹爽と司馬懿が後見している。
そしてその曹爽と司馬懿が対立している。
曹爽は宗族として後見、司馬懿は功臣として後見。
司馬懿の方が後見の根拠は弱い。
事実上の曹爽の立場は皇帝に近い。
多数の相続は当然曹爽を支持。
また人臣は司馬懿を支持する義理も無い。助ける謂れもない。
司馬懿は気づいたら窮地に陥っていた。
上記から見て、歴史的な選択肢は、二つしかない。
殺されるか、逃げるか。
●窮地に陥った司馬懿の三つの視点
①先祖:司馬懿は戦国趙の将軍司馬尚の子孫である(晋書 宣帝紀)
司馬尚は李牧とともに秦の王翦・王賁父子の軍を防戦していた。
しかし佞臣郭開の讒言で李牧は処刑、司馬尚は更迭された。
漢書名臣伝をそらんじたと言われる司馬懿がこれを知らないわけはあるまい。
先祖と同じ轍を踏むことになりかねない。
そして、司馬懿の立場は司馬尚ではなく、李牧だ。
②息子:野心的な司馬師の存在
あまり表に出てこない司馬懿の嫡男司馬師の存在。
この司馬師はこの正始政変(高平陵の変)の作戦を司馬懿とともに考えたとされる。
その際に、司馬師はすぐに三千人の士卒を集めたとされる。
司馬懿は司馬師のことを褒めた。
それら士卒はどこから集まって来たかわからなかったという。
(出典:川本芳昭氏 中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝))
人質制度も厳しくないこの時代、
司馬師は、曹操の息子たち同様、
父司馬懿の戦陣に常に従軍していたのではなかったか。
当代随一の功臣司馬懿の嫡男として、着々と力を付けていた。
父の立場であればと考えていなければ、
非常時に備えて三千人の士卒を養うことなどできない。
司馬懿が引いても、司馬師は仕掛ける。
囊中の錐である。
③時代:法家政治の限界
司馬懿はこの時代の厳しさをよくよく認識していたと思われる。
河内司馬氏。
そもそも名族、
それもこの時代もっとも繁栄している名族である。
出身の温県を中心に名望を集めて来た。
それは儒家としての理想的な在り方であった。
それが曹操に出仕を求められ、
曹丕から評価されて、録尚書事に登り人臣を極めた。
曹丕が求める皇帝専制、法家政治を陳羣とともに支えた。
しかし曹丕の崩御により、曹叡が即位。
早々に襄陽に出鎮させられた。
皇帝専制を行いたい曹叡にとって、父の側近は不要だった。
これは当時は左遷に近い。
しかしそこから功績を挙げ、またもや曹叡の崩御により、中央に戻る。
曹魏皇帝の実力主義評価の厳しさともっとも知るものが司馬懿だ。
そうした厳格な世の中に倦み、
その反動が起こるのもわからなくもなかったのではないか。
●曹魏皇帝の厳格な政治の不満の矛先が司馬懿に向かう。
正始の音という時代が訪れ、文人たちの才が花開く。
軍事の世の中では芽が出なかった者たちだ。
その反動の矛先は、司馬懿に向かう。
厳格な政治をやっとのことで切り抜けた老臣司馬懿に矛先が向かうこの皮肉。
司馬懿が曹魏皇帝が行う法家政治の権化に見えるわけだ。
行き過ぎた法家政治。
秦始皇帝と同じ評価の時代。
儒家と法家を知る司馬懿だからこそ、
この状況を理解し得たのではないか。
●厳しい実力主義の時代を政略結婚で乗り切る司馬懿・司馬師
私は、その苦悩を司馬師の正妻の変遷に見る。
はじめの正妻は、曹真の姪、つまり曹爽の従兄弟、夏侯尚の娘で夏侯玄の妹、
次の正妻は呉質(曹丕四友。司馬懿もその一人である。)の娘、
三番目の正妻は羊祜の同母姉、母は蔡邕の娘、すなわち外祖父は蔡邕である。
羊氏は泰山で大きな勢力を持った名族。
元は姻戚関係で宗族の連類であった。
しかし宗族に力を与えない魏では、
司馬氏の安定に寄与せず、同じく皇帝の側近としての呉質と姻戚となる。
しかしその呉質の一族は厳しい実力主義の時代に抗えず、
歴史の表舞台から消えていく。
そして司馬懿は、泰山の名族で強い勢力を持つ羊氏と結ぶことになった。
結局、儒家思想社会として、同じレイヤー同士姻戚関係を結んで、
互いに互助関係を結ぶしか、自身を守る手立てがなかったのである。
河内の名族司馬氏の貴公子司馬師の正妻が二度も変わるなど本来異常なことだ。
あまりにも異常なので、はじめの正妻は毒殺されたともされる。
234年のことだ。それが事実なら、
曹叡に目を掛けられていた曹爽とことを構えることになる。
そのようなことはこの時点であり得ない。
後々になって表に出す必要もない。
そもそもそんな一族など誰も信用しないだろう。
信用しなければなら、姻戚関係など誰も結ばない。
司馬懿自身も、曹爽とは違った視点で、曹魏法家政治の限界を感じていた。
●逆手を取ることにきめた司馬懿
先祖は失脚した、自分が死んだら多分息子は仕掛ける、
曹魏の法家政治はもう限界だ、
しかし我々司馬氏が犠牲になるわけにはいかない。
歴史の事例は、逃げるか、逃げなければ殺されると示唆している。
であれば、司馬懿が仕掛けるほかない。
息子が仕掛けるぐらいなら、盤石の体制の今、
自身が賭けに出た方が確率は高い。
一族の結束も固い。
今しかない。
これで曹魏は事実上滅亡する。