歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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「浮華の徒」の何が悪いのか。~魏の実力主義その実態~

 
魏においては、文ではなく武。

すぐに成果を出すものこそが善。
  
司馬懿からすれば、
何の実力もないのにも関わらず、国政・軍事に携わり、
国を誤った。果ては、司馬一族に対して、敵意を持った。
 
曹叡からすれば、
自分の役に立たない。実務に役に立たないにもかかわらず、
研鑽もしない。
 
実務に秀でていないにもかかわらず、
権力を握ろう、権力に近づこうとしたことが問題。


例えば、
正始の音の代表的人物、何晏。
「正始の音」とは玄学清談が流行した時代のことである。
玄学清談の主題は、人物評価と哲学である。
何晏は、「老子」の解釈として、「道論」「徳論」、
論語の注釈として「論語集解」(ろんごしっかい)
を著している。
 
これは後世に伝わる著書である。
ただ曹叡からすれば、実績・実学を求めるのであろう。
曹叡からは、
「浮華の徒」として遠ざけられた。
文よりも、武を重んじた。文化の発展よりも優先された。

なお、何晏について二点付記したい。
①何晏の風体・・・
彼は、柳のような細い身体で、
白粉を常に離さず、五石散(5種の鉱石を混ぜたもの。一種の麻薬のようだ。)を
常用していた。そういう風体であるので、見え方も悪かった。
 
②何晏は吏部尚書に就いていた・・・
※吏部尚書・・・人事を司る。
何晏はこのポストについていた。
何晏は、在任中、賈充・裴秀らを推挙する。
両者とも優秀な人材だったが、このころから九品官人法の弊害が見え隠れする。
賈充は、この後一族として権勢を振るった。
裴秀は、朝廷の高官として実績を挙げ、また精緻な地図を作ることで文化史に名を残した。
裴秀はのちに河東裴氏と呼ばれる、
代表的な貴族の祖先の一人である。
陳寿の三国志に注釈した裴松之や
飛鳥時代の日本に来た裴世清もこの一族である。

 

また、皇帝と名士の考え方の違いが判るエピソードが下記だ。
曹叡と名士の一族である盧毓(盧植の子。後に范陽盧氏と言われる、代表的な漢人貴族となる。唐代には多数の宰相を輩出)との採用に関する考え方が伺えるエピソードがある。
 
魏明帝曹叡「名声など絵に描いた餅(画餅)だ。参考にする必要はない。」
盧毓「確かに名声は特別な人材をさいよう不十分です。しかしながら通常の人材を採用するには参考になります。
通常の人材が、学び、善行を積み重ねて、初めて有名、名声を得るのですから、憎むべきではないです。」
 
 
人材の見立てに関して、
魏の皇帝の考えと、当時の名士の考えは、ずれていた。
正始年間は、事実上の皇帝不在であり、
名士の考えが世に伸長した。
 
皇帝の考えに従って勝ち残ってきた司馬懿は、
世間の潮流から乗り遅れかけたのである。
結果として、司馬懿は巻き返しを図るため、曹爽一族を打倒した。
そして、名士たちの支持を、自身の基盤にしようとした。