歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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名族の時代を司馬懿が開く

 

249年司馬懿は高平陵の変(正始政変)から、

西晋が滅びる永嘉の乱までは名族(貴族。中国では士族という)の時代である。この時代は儒家を基礎に置いた復古思想が主流となる。

 

 

結論として、司馬懿は、

皇帝権を振るうのではなく、

名族の支持を得ることで、自家、つまり司馬一族を守ろうとした。

 

私は、司馬懿、司馬師とも禅譲は視野に入れていなかったと考える。

禅譲を見据えたのは司馬昭だ。

 

司馬懿は、高平陵の変(正始政変)の結果、

元に戻った。

元々司馬懿は幼帝の後見を明帝曹叡の遺詔により指示されていたわけである。

曹爽が排除されただけで、

司馬懿は元の地位に戻っただけである。

 

私は司馬懿は儒家思想と法家思想を体現でき、実績も挙げられる

歴史上の偉人だと考える。

曹魏の皇帝にも忠誠を誓ってきた。

しかし、曹魏の皇帝専制は成人の能力のある皇帝がいてこそ成り立つもの。

幼帝では政務を取れず、臣下が代行するほかない。

臣下が争えば、自分たちで身を守るほかない。

司馬懿は身に染みて感じた。

 

司馬懿は、高平陵の変(正始政変)の時70歳。

魏皇帝曹芳は16歳。

 

自身の寿命は近い。

魏皇帝曹芳は成人の年齢になってきている。

しかし、皇帝はあてにならない。

そもそも皇帝という存在は臣下を守る必要はない。

特に魏は皇帝専制を求める王朝で、臣下から見れば非常に自分勝手だ。

出る杭は打たれる。

息子たちは優秀で、諸勢力に打ち勝つことはできるだろうが、

今司馬懿自身が存命の間に確実な手を打っておきたい。

司馬懿は明帝曹叡から遺詔を受けており、内政・軍事の全権を掌握している。

 

 

 

歴史的に見れば、この時点で魏という帝国は事実上の終焉を迎える。

この後魏皇帝が実権を振るうことはなかったのである。

 

しかし、

私は、司馬懿、司馬師すらも、

禅譲を狙っていなかった、視野に入れていなかったと考える。

司馬一族が禅譲を考えた始めたのは、

賈充を遣わして諸葛誕など出鎮の将軍に禅譲の是非を聴き始めた257年である。

そして、決断したのは260年である。

高貴郷公曹髦(後廃帝)を賈充が成済に弑逆させた。

司馬昭は賈充を罰することなく、成済を処刑した。

司馬昭は留まることを許されなくなった。

 

名族の時代の幕開け、名族のトップ河内司馬氏は、

時代の最先端を行き、困難に立ち向かうことになる。