歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

袁紹と司馬懿の中継ぎ役が荀彧=荀彧は自殺していない=

 

●袁紹と司馬懿を繋ぐもの、荀彧

 

 

荀彧も名族である。
名族の系譜では、袁紹と司馬懿の間をつなぐ者である。

 


名族の歴史では、荀彧は曹操に負けたことになる。

それで曖昧な存在になっているのが、荀彧である。

本当は、

袁紹→(荀彧)→司馬懿だ。

下記に、陳寅恪氏『魏晋南北朝史講演録』から引用する。
※陳寅恪氏は、中華民国から中華人民共和国にかけての学者。
歴史に関する造詣も深い。歴史では魏晋南北朝から隋唐が専門。
祖父は、清末の変法派。陳寅恪氏自身は、最終的に文化大革命で迫害を受けた。

-----------------------
曹操为一代之枭杰,他不仅得到了众多有才能的寒族人物的支持,而且得到了部分有才能的豪族士大夫的支持,如荀彧、荀攸。(略)
荀彧认为袁绍不能有所作为,遂舍袁从曹。他还为曹操引进了不少士大夫阶级的人物。然而,作为一个阶级来说,儒家豪族是与寒族出身的曹氏对立的。官渡一战,曹氏胜,袁氏败,儒家豪族阶级不得不暂时隐忍屈辱。但乘机恢复的想法,未尝一刻抛弃。曹操死后,他们找到了司马懿,支持司马懿向曹氏展开了夺权斗争。袁绍是有后继人的,他的继承人就是司马懿。袁绍的失败只表明儒家豪族暂时受到了挫折。后来,他们通过司马懿父子之手,终于把政权夺回到了自己的手上。

陈寅恪《魏晋南北朝史讲演录》
上記の翻訳↓

-----------------------

一代の梟雄である曹操は、多くの寒族たちの支持だけでなく、

才能ある豪族士大夫の支持も得た。それは例えば、荀彧、荀攸などである。

(略)

荀彧は袁紹は大事を成しえないと考えた。袁紹を捨てて曹操に属した。

荀彧は、曹操に多くの士大夫階級の人材を推挙した。

 

しかしながら、

それは階級として考えると、

儒家豪族というのは、寒族階級出身の曹氏と対立状態であったのである。

官渡の戦いで、曹操は勝ち、袁紹は負けた。

儒家豪族階級は、そのため隠忍自重の日々をしばらく過ごさねばならなかった。

しかし復権を考えない日はなかった。

曹操の死後、彼ら士大夫階級は司馬懿を見出した。

司馬懿を支持して曹魏に立ち向かい、権力抗争を繰り広げた。

袁紹には後継者がいた、それは司馬懿なのである。

袁紹の失敗は、儒家豪族たちの一時的な

挫折にすぎない。

 

そうして、彼ら儒家豪族は司馬父子を通して、自分たちの

復権を果たしたのである。

陳寅恪『魏晋南北朝史講演録』

---------------------------

※「豪族士大夫=士大夫=儒家豪族」ということのようだ。

このように袁紹が敗れたのち、司馬懿が立つが、実はその間に

いるのが荀彧である。

荀彧は袁紹を見限った。
曹操の陣営に入り、
たくさんの清流派官僚を引き入れた。


司馬懿も実は荀彧が引き入れた一人。
荀彧は名族である。
潁川荀氏。

 

 

●名族と寒族、その大きな隔たり

 


私は、この階級、レイヤーの違いを強調する。
ただ、現代に生きる我々はこのレイヤーの違いがどういうことなのか、
まだ抽象的にしか捉えにくいのかもしれない。
なので、下記に引用する。

福沢諭吉の福翁自伝からである。

-----------------

一体(万事)中津の藩風というものは、
士族の間に門閥制度がチャンときまっていて、
その門閥の堅い事は、
ただに藩の公用についてのみならず、
今日私の交際上、
子供の交際に至まで、
貴賤上下の区別をなして、
上士族(高級武士)の子弟が、私の家のような下士族の者に向かっては、
まるで言葉が違う。

私などが、上士族に対しては、
「アナタがどうなすって、こうなすって」といえば、
先方では「貴様がそうしやって、こうしやれ」というような風で、
万事その通りで、
何でもないただ子供の戯れの遊びにも
門閥がついて廻るから、
どうしても不平がなくてはいられない。
-----------------

こんな具合であった。
幕末まで明確な身分差というのはあったのだ。
それも普段からそれを感じる状況だった。

そもそも、潁川荀氏や河内司馬氏のように
先祖が明確にわかる一族と、
どこの馬の骨ともわからない曹操と一緒にされてはたまらない
という事だ。


曹操、のちの魏は全く名族の考え方を持っていない。
自分たち一族の範囲も曖昧であり、
誰が父親なのかということにも非常に粗雑な扱いだ。

魏の宗族とされた、曹真や曹休は、どういった系図で
曹操・曹丕の嫡流につながるかが曖昧である。

また魏明帝曹叡の後継者曹芳の父は、

陳寿「三国志」では不明とある。
皇帝はもちろんのこと、皇族の一人の父親が誰かわからないなど、
現代の我々からしてもあり得ない。
しかし、魏はそういう感覚だったのだ。

つまり、名族とは全く価値観を共有できないのだ。
名族とは、先祖が誰なのかから、名族意識というのが生まれるからだ。

 

 

●荀彧の空弁当は嘘だ。



そういうわけで、
私は有名なエピソード、荀彧の空弁当を疑っている。
これこそが、名族と非名族の冷酷なまでの差別の最たるものだと
私は考える。

このエピソードは簡潔に記すと下記の通りだ。
曹操から贈られた食物が空っぽの器だった、
そのためその意図は「貴様は用済みだ」と
解釈をし、荀彧は毒を飲んで自殺した。
私はこれを、
荀彧の子孫が、
ご先祖様が曹操に協力をして、
禅譲をさせてしまったことを、
自殺や賜死を匂わして、
漢王朝への忠義を暗喩させているだけではないかと考える。

荀彧は、袁紹から司馬懿までの中継ぎ役である。
その立ち位置を明示する。

まず、荀彧は袁紹陣営から出奔し、
曹操陣営に入った。
そして、荀彧は非常に優秀な清流派官僚出身の人物を曹操に推挙した。
それが荀攸・鍾繇・司馬懿である。
荀彧が曹操陣営に入ったことでこれら人物たちも
曹操に仕えることになったとも言える。
反袁紹となった荀彧は、それも名族のある程度の部分の支持を受けていた。
そして、袁紹が滅びた後は、代表的な名族は荀彧となる。

そうした荀彧は、
曹操の軍師としての印象が強いが、
実は荀彧は漢から官職をもらっている。
丞相曹操よりは下位であるが同僚ではある。
家来ではないというわけだ。
当時、名目的であったとはいえ、これは大きなことである。

夏侯惇が晩年、曹操に対しては、なぜ魏の官職をもらえないのかと
訴えている。
それに対して、曹操は、早い段階で漢の官職を受けていた夏侯惇に
魏の官職を与えるのは失礼だと思い、遠慮したというエピソードがある。

漢の皇帝がある限りは、
漢の官職を受けているものは、
漢皇帝の直臣となる。
漢の中の、魏という国の官職のみを受ける者はたとえ実権があるとしても、
それは陪臣となる。
格が下がるわけだ。

ということで、荀彧は漢の直臣であった。
それも、
曹操派や、外戚として高位にあるのみで、差配ができないものたちを
除けば、漢としての執政は荀彧が事実上取っていたことになる。

これは、名族・潁川荀氏としては、
非常にまずいわけだ。

少なくとも、魏晋南北朝から隋までは、
その由来を誇る名族・潁川荀氏としては、

曹操への事実上の禅譲を、荀彧が止められなかった、
いやむしろ協力していたのではと思われるのは、
非常にまずい。

潁川荀氏で名族の一つである。
三公はもちろん一族とも高い官職を数百年に渡って受けてきた。
儒家の徒で、理想は周公旦としている一族としては、
大層まずい歴史なのだ。

 

●東晋後期の潁川荀氏にとって望ましくない、先祖荀彧の曹操協力



曹操から贈られた食物が空っぽの器だった、
そのためその意図は「貴様は用済みだ」と
解釈をし、荀彧は毒を飲んで自殺した。

これは「魏氏春秋」のエピソードである。
これは、魏明帝曹叡の側近孫資の子孫孫盛(孫資の玄孫)の著書である。
時は東晋の時代、桓温が禅譲を伺う時代である。

蜀漢正当論が漢晋春秋などをはじめ出てきた頃で、
桓温の禅譲を防ぐ輿論形成に躍起になっていた時だった。

世情の要請もあり、また潁川荀氏としてもこの機会にということで、
先祖荀彧は逆臣曹操に殺されたということにしたのではないか。



荀彧の死去は、212年。
唐突の死である。
ここで曹操が荀彧を殺したとしても、
何のメリットもない。
曹操の軍勢の兵站を担っていた
関中を、慰撫している鍾繇の反発を買うだけである。
郭嘉なきあとの曹操軍の軍師、
荀攸の協力を得られなくなるだけである。
将来の有望株で曹丕の腹心の司馬懿を失うだけである。

それ以上に、
212年の段階で荀彧を殺すことは、
曹操に禅譲の意思があることを明確にすることにもなる。
禅譲の意図すら、史書に残さなかった曹操にとって
何一つメリットがない。
曹操は禅譲を受けなかった。
禅代(世を譲り受けること。つまり易姓革命)しなかったのだ。
禅代したのは曹丕である。

魏晋南北朝に生きる荀彧の子孫は、
先祖荀彧が曹操に協力しているという構図は非常にまずいのである。

なお荀彧は
163年の生まれであり、
212年に没している。
49歳。
年齢からして、病死でも一切おかしくはない。