歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬師の儒家シフトが、旧勢力の反乱を引き起こす。

奇しくも、

東興での敗戦が、司馬師の

政治スタンスの表明になった。

 

諸将を罰せず、自己に責任があるとする。

これこそ儒家のスタイル。

周公旦の目指したスタイルだ。

 

 

 

これにより、名族の支持を得ることになる。

 

合わせて、旧勢力の反発を引き起こす。

 

それは、宗族・皇帝側近、

そしてその大元は皇帝だ。

 

徳治主義・儒家政治は、そもそも

漢のやり方であり、魏のやり方ではない。

 

魏のやり方を信奉する、

そして魏からのみ利益を享受する者たちからの反抗が始まる。

 

 

254年2月に

李豊の変が起きる。

 

李豊が、乱を企図していたということで、

司馬師に誅殺された事件である。

 

この変の図式は、後漢末期の

献帝の、対曹操への攻撃が

夫人や皇后を通じて行われた事例を思い出す。

200年の董承の変は献帝の意思により、

董夫人を通じて起きた。

曹操は即断し、董承や献帝の子を身籠っている董夫人も殺した。

これを受けて、

伏皇后は曹操への敵意を明確にし、

父の伏完は行動を起こさないまま、209年に死去する。

その後214年に伏皇后の意思は曹操の知るところとなり、廃后となる

 

孫亮とも似ている。

呉の二代皇帝孫亮は、

(そんりん)の専横を憎み、

皇后全氏の父全尚に孫綝打倒を指示したが、

孫綝に気づかれ、全尚は処刑、

孫亮は廃された。

 

この李豊事件はこれら三例に類似している。

 

李豊は何者かというと、

元々名高い名士として知られていた。

功名心・虚栄心で動き、思想では動かない人間だ。

曹爽と司馬懿の対立では旗幟を明らかに

せず、世間から後ろ指をされながら、生き残った。

「曹爽の勢、熱きこと湯の如し、

太傅(司馬懿)父子、冷たきこと水の如く、

李豊兄弟は揺らめく光の如し

(福原哲郎氏 西晋の司馬炎 から引用

と揶揄された。

 

自己の保身に汲々とするタイプである。

 

当然、司馬懿ら司馬氏から信用されることはなかった。よくあるパターンである。

 

李豊の息子は、魏明帝の娘・斉長公主(長女である)を娶っており、皇帝に近づくほかなかった。

 

そうした李豊に魏皇帝曹芳の皇后張氏と

その父張緝(ちょうしゅう)は、頼った。

頼るほかないほど、協力者がいなかったのか、

それとも人物の目利きが足りなかったのか。

 

李豊の動きは早々に司馬師の知るところとなり、司馬師は李豊を誅殺。

一族も族滅させた。

李豊を取り調べたのは、鍾毓。鍾繇の嫡男である。

 

魏皇帝曹芳の意思を知るところとなった、

司馬師はこの事変で夏侯玄を巻き込んだ。

 

司馬師の政権は、

主に魏建国の功臣の一族に支えられていた。

司馬師にとっては、それ以外が

敵対しうる者たちになるわけだが、

もはや夏侯玄ぐらいしかまともな人物は

残っていなかった。

 

夏侯玄は、容姿端麗、文筆の際もあり、

法にも通じていた。

 

九品官人法の問題点を指摘し、

改定案を出して、司馬懿と対立したほどだ。

 

また夏侯玄は魏の宗族に当たる。

夏侯氏は曹操の父の曹嵩の出身氏族であり、

準皇族である。

曹爽の征蜀(244年興勢の役)でも

雍州諸軍事として出征している。

夏侯玄は正始政変で処刑された何晏とも親しく、

つまり最先端の玄学清談にも通じていた人物であった。

 

 

反司馬師勢力が結集しうるのは夏侯玄しかない。

ここは司馬師が意図的に

夏侯玄を巻き込んで、罪を着させ、

処刑した。

 

司馬昭が夏侯玄の処刑を反対して、

生かしておいたら危険だとして

司馬師が司馬昭を説き伏せたという

エピソードからして明確だ。

 

魏皇帝曹芳からの攻撃をかわすためにも、

夏侯玄の処刑は司馬氏にとって

必須だった。

 

そうして、司馬師は7ヶ月後に

魏皇帝曹芳を廃する。

綿密な計画を練ったのであろうが、

色々と逡巡をした結果だった。

 

司馬師は確かに勇敢だが、

司馬氏権力の維持以上のビジョンは全く

見えてこないのだ。

 

その証拠に、

司馬師は

魏皇帝曹芳を果敢にも廃するが、

後継者として考えていたのは、

曹遽(そうきょ)であった。

曹據は、曹操の子で、曹丕の弟、

曹叡にとっては叔父に当たる。

魏の宗族らしく、年齢がわからないが、

曹操が220年に死んでいるのだから、

少なくとも34歳は超えている。

司馬師にとって御し易いわけがない。

 

歴史を見ても、

皇帝を傀儡にしたければ、

幼帝を立てるのがセオリーだ。

司馬師にはその意図はなかった。

 

 

しかし曹叡の皇后・郭太后が反対した。

曹叡にとっての叔父が皇帝になることは

家が変わることを意味する。

ヨーロッパの王家の感覚では

ダイナシティが変わることだ。

 

これに曹叡の皇后、郭太后は反対した。

自身の存在も宙に浮いた形となる。

それを嫌がった。

曹叡の甥高貴郷公曹髦を推薦し、

司馬師は折れた。

父司馬懿が曹爽を打倒した時の古例に習って、郭大后を利用したが、

誰を後継者にするという根回しはしていなかったのであろう。

 

土壇場で後継者が変わった。

曹芳を廃することは、次の皇帝は、

曹叡を継ぐということになる。

郭大后にとっては、義理の息子になる。

曹據は郭太后と年齢が近かったのかもしれない。

 

 

わざわざ輔弼であろうとした

司馬師を時代は許さなかった。

そもそも名族は儒家であるからこそ名族たりうるのだ。

そして名族は皇帝にはならない。

そして司馬氏以外にそれ以後名族は皇帝にならなかったのだ。

 

名族は秩序維持を重んじる。

特に河内司馬氏のような厳しい儒家の家風を持つ家はよりその傾向が強い。

 

だから、権力を握る以上の野心は本来ない。

ビジョンもない。

 

だから、西晋は数十年で崩壊する。

 

復古思想以外の政治的ビジョンはなかったのだ。

 

※なお、

東興の戦いと、李豊の変の間に

253年4月に諸葛格が

合肥新城を包囲するという出来事がある。

これについて下記に説明する。

 

叔父の司馬孚、毌丘倹、文欽らに

20万の軍勢を派兵。前回と異なり、

司馬氏の長老司馬孚が事実上の大将であることは特徴的だ。

司馬氏政権の今後を占う戦いであり、

失敗が許されないと思ったためであろう。

 

司馬師は諸葛恪への攻撃を許さなかった。

合肥新城の堅守と諸葛恪が死地にいるので、

そのまま自滅するという判断から

許可をしない。

実際に諸葛恪は堅城の合肥新城を攻めあぐねた。

数ヶ月の滞陣で、疫病が発生、

好機と見た司馬孚は攻撃を仕掛けようとするが、そこで諸葛格が撤兵する。

司馬師は、非常に手堅く対処し、

呉を退けた。