歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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儒家政治の理想は農本社会を基礎とする。

秦漢は、

典型的な農本社会であった。

 

大半が農民で、

農業を行う。

 

それを皇帝を中心とした

官僚機構が支える。

 

案外とフラットな組織だったのだ。

 

農民のトップが皇帝。

ただそれだけだったのだ。

 

当時は贅沢しようにも商経済が発展してないから、

何のしようもない。

 

しかし、戦争は組織を必要とする。

全ての戦いを皇帝が行うわけにはいかない。

軍隊の組織として、

皇帝の代理、将軍の代理、ということで

各種レイヤーが生まれていく、

 

その組織を運用するために、

決まりごと、すなわち法が必要となる。

 

曹魏の皇帝は、

対外脅威を根拠に軍人皇帝として

君臨した。

 

しかしながら、

脅威がされば、元の古代から理想的な

社会に戻りたいという

風潮が強まる。

 

素朴な農民、その農民たちをまとめるリーダーがいて、

何か困ったことがあれば、そのリーダーが面倒を見る。

 

そのリーダーを先頭により大きなリーダー、

国を覆う徳を持つ皇帝を支える、

これこそが儒家の理想だった。

 

しかし、軍事的脅威が去っても、

もう一つ競争がうまれる。

 

それは経済である。

 

経済は国内の競争原理を生み出した。

農業を上手に経営したものは

富を蓄えるようになる。

その背景は、

物資や貨幣の流通が挙げられる。

特に戦時下から平時に移った直後は、

経済発展しやすい。戦火がなくなったことで、

安定して経済活動が行われるからだ。

 

 

一方で、農業の経営を失敗したものは、

没落する。

自己所有していた土地を担保に

生活費の足しにしなくてはならない。

 

そうした没落農民は、

富裕農民の傘下に入らざるを得ない。

それを古代の歴史では

奴隷という。

 

西晋の司馬炎は、

復古思想としての儒家政治を行った。

軍を廃止し、土地を分け(占田・課田法)、

自身は儒家の皇帝らしく、

人民を見守るだけの皇帝と成り下がった。

 

司馬炎のスタンスが大きく変わるのは、

280年の呉の統一以後である。

この前後で大きく変わるのだ。

 

しかし、最早農本社会には戻れなかった。

経済が発展していたのだ。

三国の割拠により、

元々豊かだった江南や蜀が、現地政権により、

より開発された。

曹魏は物々交換の経済しかなかったようだが、

江南では孫権が鉄銭を鋳造するなど、

貨幣経済も徐々に復活している。

 

280年以降の太平は、

高度経済成長をもたらした。

皇帝は積極的な政策を採らない。

そうしているうちに、大きく貧富の差が広がった。

これは曹魏末期からの傾向だが、

より進んだ。

 

富を手にするものと、

奴隷になるもの。

 

富を手にするものが奴隷になる。

それは名族であった。

名族が奴隷を保有する。

 

奴隷からは、皇帝は税を取れない。

 

皇帝の力は相対的に弱体化する。

名族を通じてしか、権限を握れなくなった。

 

西晋において、各地に封じられた宗族の王も同様だ。

 

これは名族に限らないが、

宗族の王には封じられた各地の有力者という

いわばパトロンがいたのだ。

 

そのパトロンが、宗族の王を立てて、

政治に挑戦する。

 

それは経済の競争原理が、政治に侵入するということであった。

 

八王の乱は政治に経済競争原理が侵入した結果である。

 

そしてこれは現代社会にも通じるものがある。