歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

賈充は功名心のために諸葛誕を陥れた。焦っていた。賈充は出遅れていた。

賈充は焦っていた。

不安に苛まれていた。

 

四つの理由がある。

①賈充は曹爽一派であった。

→正始政変で曹爽一派は滅亡。

②賈充は李豊の娘婿だった。

→李豊の変で、李豊は誅殺される。

③賈充の父は法家だった。

→魏の厳しい法家を嫌い、儒家の寛容の政治を志向する時代。

④賈充は名族ではなかった。

→名族が力を持ちつつある時流。

 

 

 

賈充が11歳の時に父賈逵は死去した。

父の支援も受けられず、

中央に推挙されたは良いものの、

推挙したのが何晏だったため、正始政変の後不遇となった。

さらに悪いことに、

賈充は李豊の変の、李豊の娘を正妻にしていた

李豊らが誅滅され、立身出世の目がなくなる。

 

そもそも父の賈逵は厳しい法を豫州に

施行し、魏の文帝曹丕に賞賛された人物だ。

 

時代の潮流は、そうした法家ではなく、

儒家スタンスの人物が好まれている。

 

賈充は這い上がるために考えた。

 

わかりやすい成果を挙げなくては、

上に上がれない。

 

その先走った成果が、

諸葛誕の乱だ。

 

私は賈充が諸葛誕に対して、

司馬昭に対しての禅譲の是非を聴いたというエピソードは、

賈充自身の独断ではないかと主張する。

 

孫権の呂壱のように、

酷吏のやり方で這い上がろうとしたのではないか。

 

それが結果として、

諸葛誕の反乱につながった。

 

激しい戦いの末、

諸葛誕を滅ぼし、

司馬昭は江南を掌握したことになった。

 

しかし、そもそも257年の段階で

禅譲の是非を聴くという行為自体が疑わしい。

司馬昭の立場からすれば、

第一に全く必要のないことである。

また、私は、司馬昭が禅譲を考えざるを得なくなったのは、

事実上賈充が曹髦を弑したことに始まる。

これは260年のことである。

 

そもそも、司馬昭自身は、

自身が司馬氏の長として、天下の采配を振るというのは、

違和感があると感じていた。

これは兄の司馬師の天下であると。

 

それが司馬師の急死により、

自身が家督を継がなくてはならなくなった。

 

そもそも、司馬師が健在で着実に体制を整えていたら、

司馬昭の子で、司馬師の養子となっていた司馬攸が

継ぐはずだった。

事実、司馬昭が家督を継いだ後その後継者も司馬攸にしようと

考えたが、

司馬炎の方が年長であるため、

諸臣の反対により取りやめたほどだ。

 

偽善にしてはエピソードが多い。

厳しい儒家思想の家風を持つ、司馬氏一族としての

スタンスとしては当然とも言える。

 

そんな司馬昭に禅譲を考えさせたのは、

賈充だ。

 

賈充は成果をあげるため、

諸葛誕に吹っかけた。

 

禅譲をどう思うか。

諾なら成果である。

否なら乱を考えていると司馬昭に報告すれば良い。

 

いずれにしても賈充の成果だ。

諾で禅譲を期待されていると言われる司馬昭は

困惑されるが、

元々司馬氏の与党ではなく、

曹爽一派に近い諸葛誕を司馬氏側に切り崩したことには

なるだろう。

 

否と答えた諸葛誕は、

賈充の報告をもとに

司馬昭から洛陽召喚命令が出る。

 

賈充とのやりとりの後だ。

 

揚州の軍権を取り上げられ無官にさせられるか、

場合によっては誅殺の可能性もある。

 

元々司馬昭に服していないのであれば、

ここで挙兵に踏み切るのもおかしくはない。

 

賈充は自身の功名心のために、

諸葛誕を唆したことになる。