歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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諸葛誕の乱は余分だ。その1==魏末司馬氏政権のときの三たび揚州の乱③==

諸葛誕の乱は、司馬昭にとって余分だった。わざわざ起こしてしまった反乱だ。

起こす必要も、起きる道理もなかった。

 

その理由は、下記6つある。

①諸葛誕は実は司馬氏の姻戚である。

②司馬昭は、玄学清談に理解があった。

③つまり曹爽や夏侯玄も理解があった。

④諸葛誕は夏侯玄と親しかった。

⑤諸葛誕の揚州諸軍事任命は、実は司馬氏の総意で

常に最有力候補であった。

⑥乱の後、司馬氏に嫁いできた、諸葛誕の娘は300年までは生きていた可能性が高い。

(諸葛太妃)

 

王凌や毌丘倹も滅ぼされたから次は自分も、と思ったから、

反乱を起こしたと、正史三国志では記述されている。

また、

諸葛誕は李豊の変で誅殺された夏侯玄と親しかった。

実際に諸葛誕は浮華の徒のひとりとみなされて

曹叡から左遷されている。このときの曹叡のジャッジが、

「絵に描いた餅」である。これが故事成語となる。

曹爽一派・李豊一派とみなされても仕方のないポジションにいた。

 

しかし、だからといって、司馬氏は諸葛誕を攻撃しない。

 

輿論は儒家を求めているが、

世の本当の最先端は、玄学清談なのだ。

 

司馬昭は、阮籍の娘を息子司馬炎の嫁にほしいと

清談のリーダー・阮籍に粘っているというエピソードがある。

司馬昭は、名族のトップとして、

最先端の玄学清談に高い関心があるのだ。これは矛盾しない。

当代一の人間が、輿論に合わせた振る舞いをするとともに、

最先端でまだ時流に乗っていないこと、

今回の場合は玄学清談に高い関心を示すのは、

どの時代もあることだ。

 

曹爽や何晏などが玄学清談などの最先端のことをいくらしても、

司馬懿ら司馬氏に対して、

敵対行動をしなければ、本来は問題はない。

上記②③④のポイントから、諸葛誕は問題はなかったのだ。

 なのに諸葛誕は乱を起こした。