歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

諸葛誕の乱は余分だ。その3 ←賈充の焦り

諸葛誕が反乱を起こす必要がない理由:

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①諸葛誕は実は司馬氏の姻戚である。

②司馬昭は、玄学清談に理解があった。

③つまり曹爽や夏侯玄も理解があった。

④諸葛誕は夏侯玄と親しかった。

⑤諸葛誕の揚州諸軍事任命は、実は司馬氏の総意で

常に最有力候補であった。

⑥乱の後、司馬氏に嫁いできた、諸葛誕の娘は300年までは生きていた可能性が高い。

(諸葛太妃)

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それでも、

諸葛誕が反乱を起こしたエピソードは下記である。

 

司馬師の死により魏の実権を引き継いだ司馬昭。

司馬昭は賈充の献言により、四方の国境に出鎮している諸軍事たちの

状況視察に賈充を遣わすことになった。

 

歴史の大まかな流れだけ見ていると、賈充の初出は大体がここになる。

 

 

---「晋書 賈充伝」から引用---------------------------------

帝新執朝權,恐方鎮有異議,使充詣諸葛誕,

圖欲伐吳,陰察其變。充既論說時事,因謂誕曰:

「天下皆願禪代,君以為如何?」

誕曆聲曰:「卿非賈豫州子乎,世受魏恩,豈可欲以社稷輸人乎!

若洛中有難,吾當死之。」充默然。及還,

白帝曰:「誕在再揚州,威名夙著,能得人死力。觀其規略,為反必也。

今征之,反速而事小;不征,事遲而禍大。」帝乃征誕為司空,而誕果叛。

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※下記に翻訳:

司馬昭(帝とは司馬昭のこと)は、司馬師の死を受けて魏の実権を握った。

しかし、国境に出鎮している諸軍事たちが異議を立てないか不安に思った。

それで賈充を出鎮している諸軍事の一人である、揚州諸軍事諸葛誕の元に

派遣した。

呉を討伐してほしいといいつつ、ひそかに諸葛誕が司馬昭に対して

異議を申し立てる気持ちがあるかどうかを確認した。

賈充は、時世について話をしてから、諸葛誕に言う。

「天下は禅代を願っている。あなたはどうですか。」

諸葛誕はそれに対して、「卿は賈豫州の子ではないか。魏の恩を受けているのに、

社稷が移ることを望むのだ。もし洛陽で変があれば、私は死をもってこれに当たる。」

賈充は黙ってしまい、洛陽に帰還する。

賈充は洛陽に帰還して司馬昭に報告する。

「諸葛誕は再び揚州にあって高い威信があり、死を賭して仕える臣下を持っている。

諸葛誕の規略を見るに、必ず反乱を起こします。

いま征伐すれば、小さなことで済みますが、しないのであれば、大事になるでしょう。」

※賈充の父賈逵は豫洲刺史として卓越した成果を挙げたので、

賈豫洲と呼ばれる。

※禅代・・・代を禅(ゆ)ずるの意味。すなわち、魏皇帝が誰かにその御代を

譲り渡す、魏晋革命を差す。

 

まず、これが事実だとすると、

司馬昭がしたことは、

方鎮の異議が怖いから、賈充を遣わしたということだ。

それに対して、賈充のしたことは、

諸葛誕に対して、禅代の如何を尋ねている。

 

私たちは、この後司馬昭の息子司馬炎が禅譲を受け、西晋王朝を開くことを知っている。

だから我々は不思議に思わないが、

明らかにこの賈充の言動はやりすぎだ。

司馬昭はそんなことは指示していない。

 

そもそも司馬師に禅譲の意志・意図はなかった。

さらに司馬昭にとって、司馬師が急死するなど

思いもよらなかった。

この兄弟は、とても仲が良い。

信頼しあっていた。

司馬昭が司馬師を継いだ後も、この天下は兄上のものだと言っている。

そんな司馬昭がたった二年で禅譲に思い至るのであろうか。

大体この晋書では、政権を執った程度のことの異議を恐れているわけだ。

禅譲など思いもよらないことだ。

司馬昭はこのときにはまだ、晋王にはなっていない。

256年6月に魏皇帝曹髦から九錫を賜るも辞退、

258年5月にようやく晋公に封じられる。

晋公にすらなっていないのだ。

 

では、なぜ賈充はこのようなことをしたのか。

わざわざ、賈充が諸葛誕に禅譲の如何を聞いたのはなぜか。

 

司馬昭におもねる為に、

・当然今後の流れは禅譲だと思った賈充は諸葛誕の支持を受けるために

先走ったことをしたか、

・諸葛誕の反乱を引き起こすために、

賈充が吹っ掛けたか。

 

司馬昭の想定以上のことをする、任務を賈充自身のために行うことしか考えられない。

自身の成果を挙げる、それもわかりやすい成果を挙げたい。

 

なので様子を見に行ったついでに、諸葛誕に吹っ掛けた。

都では司馬昭への禅代をみんなが期待しているが、将軍はどうですかと。

 

当然、帝都洛陽では水面下の噂話にはなっていたのだろう。

賈充にとってはそれをただ言っただけだが、

相手は揚州諸軍事の要職。司馬氏の外戚。

そもそも何をしに来たのかわからない賈充相手に油断できない。

下手なことを言っていい環境では全くないのだ。

 

そもそもこのやりとりも、本当の現場の言葉ダイレクトとも限らない。

 

いずれにしても、禅代に加担しないという表明はしたのだろう。

 

賈充はこれを持ち帰った。

そもそも賈充にとっての目的は大きな成果を挙げることだ。

この諸葛誕の表明は、司馬昭に対する宣戦布告とみても差し支えない。

そして、そもそも司馬昭が聞きたかった、

諸葛誕は司馬昭が政権を握ったことに異議を唱えたかどうかという

回答に乗せて、答えることができる。

 

諸葛誕の様子を伺ったところ、

司馬昭に対して、禅譲の意志を感じる、断固として反対である、

異議を唱えると言っていたと。

 

そして、今ならまだ間に合う。

いま手を打てば最小限の被害で済むと。

 

司馬昭は、司空就任を口実に洛陽へ召喚命令を出す。

賈充が来た後だ。それもあのようなやりとりの後で、

諸葛誕が裏を読まないわけがない。

司空は、司徒に続くNO.2の役職だが、

録尚書事の加冠がなければ、実権がない。

揚州諸軍事として、10万人近い兵士を動かせるい

いまのポジションの方が実権は大きい。

そして軍権を奪われたら、幽閉されて処刑というのは、

韓信をはじめよくある話。諸葛誕レベルの人間であれば、

当然押さえておくべき事例であろう。

 

セオリー通り考えて、これは更迭である。

賈充の対応を考えたら、司馬昭が自分を陥れるためにしたと考えても

全くおかしくない。そのくらいなら反乱を起こす。

司馬氏が名族の支持があるとはいえ、

専横しているのは事実。大義名分は立つ。

 

 

そうして諸葛誕の乱は、呉を交えた大規模な戦いへと発展した。

まったく最小限にならなかった。

諸葛誕は10万を超える兵を従えて挙兵、

末子の諸葛靚を呉に人質に出して、呉と結ぶ。

そうして、この乱は9か月続くのである。

 

 

司馬昭はしくじったのである。

揚州の乱三度。

司馬懿は王凌を乱を起こさせることなく、逮捕して誅殺した。

司馬師は皇帝を廃したことで毌丘倹の乱を招いたが、

目の手術後にもかかわらず、鍾会たちの献言を容れ、親征。

ひと月程度の電撃戦で毌丘倹を破る。

父・兄に比べ、司馬昭は泥沼の諸葛誕戦へと入り込む。

司馬氏の外戚で、

強力な与党になる可能性もある、

戦う必要のない諸葛誕と干戈を交えることになってしまった。

死兵と化した諸葛誕の軍とあえて戦わなくてはならなくなった。

 

 

なぜ賈充はここまでして、成果を挙げたかったのか。

 

ここが歴史の落とし穴なのだろうが、

逆に考えて、賈充は成果を挙げる必要があったのである。

 

賈充は西晋成立の功臣。

のちに西晋恵帝の外戚、

呉制圧戦では総司令官に就く権力者。

 

後からみれば、何の問題もなく権力者になった印象が強いがそんなことはない。

 

そもそも賈充の登場は突然なのである。

初めからそういう印象は持っていたが、

晋書でもこの諸葛誕のエピソードで成り上がる。

 

では、その前はどうだったか。

賈充(217年-282年)の父は賈逵(174年-228年)である。

賈逵の43歳のときの子である。母は詳細は不明。

賈逵にはほかに正妻はいたようなのでつまり尊貴な血ではないということだ。

父賈逵は54歳で死去、そのとき賈充は11歳であった。

まだ官職についていない中での死去だった。

いくら賈豫洲の息子とはいえ、官職につく年齢に達していなければ、

便宜は図ってもらえなかった。

 

そもそも賈逵は法家である。

法を厳しく公平に施行して、豫洲を開発・発展させた。

魏文帝曹丕に賞賛された。

そういう人物である。

名族でも何でもない。

 

ではどのようにして官途が開けたか。

正始の音の時代、吏部尚書であった何晏の推挙である。

 

必然的に曹爽一派の末端となる。

しかし司馬懿に曹爽が殲滅させられると、

賈充は官職を解かれた。

 

もちろんその後は司馬氏の天下である。

そのままにしてたら賈充が陽の目を浴びることはない。

 

さらに悪いことに、賈充の正妻は、李豊の娘だった。

254年2月に李豊の変が起き、賈充の立場は非常に悪いものとなった。

 

経緯は不明だが、何とか中央の官職に復帰した。

多分司馬師以降の寛容の政治の恩恵に預かったのではないか。

 

一種の恩赦である。

 

けれども、曹爽一派であったことには変わりない。李豊一派でもあったのである。

やむを得ずとはいえ、履歴は消えないのだ。

 

賈充は焦った。まもなく40歳の賈充は曹爽一派・李豊一派ではないと認められるほどの、

大成果を司馬氏側にもたらさなければならない。

余程のことがなければ信用されるわけがない。

 

それが諸葛誕の乱であった。

同じ曹爽一派・李豊一派であった諸葛誕を陥れることで、

賈充は司馬氏・司馬昭の信用を勝ち取った。

もしかしたら、仲間を売ったのかもしれない。

 

賈充は何が何でもやらなければならない、そういう立場だったのだ。

 

 

それがわかると、西晋を牛耳った賈充という人物の心象風景がわかる。

賈充の焦りが西晋を振り回す。

これ以後賈充こそがこの時代の最先端を行く。

賈充の流儀が時代を蓋う。

賈充の流儀が西晋を登場させた。

 

諸葛誕の乱←賈充の焦り。