歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

賈充はついに皇帝を人間にした。~満天下で初めての皇帝弑逆~

260年、

皇帝が初めて、青天の下、衆目のある中で殺された。

 

密室の毒殺などではなく、

確実に臣下に殺されたのはこれが初めてである。

 

魏の皇帝曹髦が、賈充の指揮の下、

成済が曹髦を刺殺した。

あまりのことで、この事件は、名称がない。

三国志を著した陳寿は、あまりのことゆえ、

この事件を曖昧にしているほどだ。

(三国志は西晋王朝下で書かれたから、当然西晋に遠慮をしている。)

東晋の裴松之の注釈で本件は明確になった。

 

人臣とは異なる存在の皇帝を弑した。

そして司馬昭は罰することができなかった。

これにより皇帝は超越した存在から

人間へと堕ちた。

 

人間が弑して取って代わることができる存在に変化した。

 

皇帝の人間化である。

皇帝の権威は歴史的に著しく堕ちた。

魏の皇帝だけの話ではないのである。

 

 

宦官や外戚が宮中の奥で、

内々に弑した、毒殺したとかではないのである。

王莽や梁冀を超えた行為なのである。

(王莽は前漢平帝を毒殺、梁冀は後漢質帝を毒殺。)

 

賈充のような出自がはっきりしていて、

教養もある、

現政権の高官が白昼堂々と皇帝を弑することを命じた。

臣下を罰しに来た皇帝・天子を弑した。

これで皇帝という概念が全てを崩れた。

天命で皇帝になったわけではない。

万物も私有していない。

皇帝は人臣が支えなければ、

身を立てることもできないのである。

 

この時代の流れに司馬昭は抗することはできなかった。

陳羣の子・陳泰が諫言しても、司馬昭は賈充を罰する

(皇帝弑逆は当然死刑である)ことはできなかった。

 

実力主義の時代の中、

儒家思想が都合よく使われ始める。

禅譲という伝説的な儀式が、

実力主義の極致として扱われることになる。

 

司馬昭はもう輔弼の臣にはなれなくなった。

間接的に皇帝を弑逆したのだ。

もう後戻りできない。

 

賈充を罰しない時点で、

司馬昭は皇帝になる道しか残されていなかった。

賈充が禅譲路線を確定させたのだ。

 

実は賈充は焦っていた。

賈充は魏初の名臣の一人賈逵の息子だったが、

は賈充が11歳のとき死んでしまった。

父の後押しがない中、何とか吏部尚書の何晏に推挙してもらえるが、

その何晏も司馬懿に誅殺される。

その後、賈充の妻の父李豊も司馬懿の息子司馬師に謀反の疑いで殺される。

離縁し、その後郭淮の姪を妻に迎えたが、こうした経緯なので、

賈充は極めて不安定な立場にあったのである。

こういった状況が賈充の背中を押した。